てぃーだブログ › ATALAS Blog › Ecce HECO.(エッケヘコ) › 第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その4」

2019年08月16日

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その4」

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」

まずは、毎度おなじみ。裏座から宮国でございます。さて、今回も柴田勝(しばた まさる)と凹天の出逢いは続きます。

日本のアニメの創成期にあたっていて、このあたりは不明点が多いのですが、だからこそ、撮影技師、監督だけではなく、書き手であった柴田勝を通して見る時代背景は、色鮮やかです。

一番座に細かく書いてありますが、現在の日本のレジェンドになったような大衆的な芸術作品の萌芽は、その頃、生まれたものだと思わざるを得ません。

映画は、当時は流行の最先端。大衆芸術とも言える落語や講談など、人頼みの表現がスクリーン、いわゆる映像、映画というものに段階的に移行していった時代だとも言えます。そこに、演劇の要素が入ったいわゆる活動写真と凹天らが作ったアニメーションと大きく別れるのだと思います。

当時の人間関係も意外と仲間内な感じで、屈託なく、相手の個性について表現している記述も多く、遠慮がありません。ディープに性質を揶揄したりするせいか、個性豊かで面白いのかもしれません。

今回のブログは、立役者であり、イノベーターだった面々の雰囲気をぜひ味わってください!


 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 1916年から、柴田勝は、天活(天然色活動寫眞株式會社)の現像工場があった錦輝館裏の錦町工場へ入社。ここで、現像室の掃除から始まり、フィルムの焼付の手伝い、現像するフィルムの巻付けなどをします。ここで、チャンスが訪れました。

 天活に入社して3ヵ月ばかりで、天活から小林商會が分離独立。その移った人びとの中には、枝正義郎(えだまさ よしろう)の助手であった長井信一(ながい しんいち)も。その後任として、柴田勝が白羽の矢に立てられたのです。

 当時大物監督だった枝正義郎は、後年『ゴジラ』(1954年)や『ウルトラマン』(1966年~1967年)を代表とする特撮物で一世を風靡した円谷英二(つぶらや えいじ)を映画業界に誘ったことで、名前が残っています。


第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」
 このふたりの出会いは、花見の喧嘩。玩具会社に勤めていた円谷英二が飛鳥山で花見をしていると、同僚が隣席の客と喧嘩。それを仲裁したのが、当時天活の技師長だった枝正義郎でした。


 柴田勝は、枝政義郎の助手として、日暮里撮影所に日参。29作品を撮影技師として制作したところで監督となり、その後に、われらが凹天と出会うことになります。別の記述では、撮影技師としての30作品目に凹天の商業アニメーション映画を撮ってから、念願の映画監督になったとも。

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」


 天活という会社についても、渡邉武男著『巣鴨撮影所物語』(西田書店、2010年)の記述に基づき、ここで触れておきます。当時から映画会社は離散集合を繰り返しました。

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」
第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」

http://www.city.toshima.lg.jp/132/bunka/kanko/sanpocourse/006175.html
豊島区HPより
 前回のブログで述べましたが、一旦、4つの映画商社がトラストをしてできた日活ですが、最初から分裂の種を内包していました。

  その主因は、小林喜三郎(こばやし きざぶろう)という日本初の映画興行師の存在です。彼の異名は「バクダン男」とか「興行界のジゴマ」。

  「ジゴマ」というのは、福寶堂がフランスから輸入した犯罪映画『ジゴマ』のことで、当時大当たりをとりました。

  ピストル強盗「ジゴマ」を真似する犯罪や不良少年が現れ、社会問題になり、上映禁止になったり、年齢制限になったり。

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」
ジゴマの写真wikiより
 子どもが「ジゴマごっこ」をするのは社会風俗上良くないという当局の考えでした。福寶堂の営業部長だった小林喜三郎が「興行界のジゴマ」と呼ばれたのは、相当なやり手だったからではないでしょうか。

 小林喜三郎は、日活に反旗を翻(ひるがえ)し、1914年、天活(日本天然色活動寫眞株式會社)を作ります。

 当初の目的は、当時、イギリスで評判をとっていたキネマカラーの色彩映画を制作する会社。社名に「天然色」とあるのは、ロンドンにあるアーバン会社の社長、チャールス・アーバンとアルバート・スミスの発明したキネマ・カラーというカラー映画製作法の使用権をもっていたため。日本初のカラー映画『義経千本桜』を撮影します。しかし、当初の目的は、第1次世界大戦の勃発したため、原料の輸入減でコストがかかりすぎるということで不首尾に。普通の映画制作や洋画の輸入に重点を移します。

  本社は日本橋で、旧劇、時代劇の撮影所を日暮里、新派の撮影所を最初は大阪の舞鶴に。現像所は錦輝館の裏手に設けられました。ここで、われらが凹天が日本初の商業アニメーション映画を製作したのです。

 小林喜三郎は、こうして天活を歴史に残る映画會社にしたわけですが、彼の興行師としての辣腕(らつわん)ぶりは、力余って最終的に天活を潰すことに。

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」
  ところで、この天活時代で、柴田勝の名前が後世に残ったのには、われらが凹天、枝正義郎(えだまさ よしろう)に加えてもう1人の映画監督を挙げておきたいと考えます。

 それは帰山教正(かえりやま  のりまさ)。帰山教正は、当時の日本映画界には珍しい東京高等工業学校(現・東京工業大学)の出身のインテリでした。1917年、天活に入社。純映画劇運動の旗手として活躍しました。その具体的な内容は、舞台脚本からシナリオへの変更、女優の登用、リアリズムの追求、活動弁士の廃止、お囃子鳴物の廃止、字幕の使用、場面転換やスポークンスタイルの採用など。

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」
https://www.titech.ac.jp/about/overview/history.html
 この革新性については、飯島正(いいじま ただし)が、詳しく述べています。ここでは、純映画劇が、後のフランスの純粋映画とは違っていたとの指摘に留めます。フランスの場合は、視覚イメージをとことん追求し、当時の概念として映画にとって不純なもの、字幕とか、物語をできる限り排除。ここに商業的意図は、原則として、ありません。これに対して、日本の純映画は、興行にかけるのが前提にあって、外国映画と同じ形式ということが肝(きも)でした。帰山教正は、『活動寫眞劇の創作と撮影法』(正光社、1917年)を著します。

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」
国会図書館のデジタルアーカイブより
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1871654
 この本の主張が主張する日本映画の欠点は、次の3つに集約されます。

 1・無言劇としての欲求に不適合。
 2・タイトルを使用しない。
 3・撮影規定および技術上不注意なこと。

 そこで、帰山教正が自分の理想とするフィルムを撮影するために用いた言葉が「映畫」。活動写真に代わる言葉として、大々的に映画を用いたのは帰山教正が日本で初めてとされています。それまで、映画は投射された幻燈を指し、活動写真と同義語ではありませんでした。

 その理論に基づき、1918年制作、1919年公開された『生の輝き』と『深山の乙女』の撮影技師として、柴田勝の旧名である大森勝の名前がクレジットされています。

 もっとも、このように評する論者もいました。

 「(略)帰山教正はインテリでアメリカの映画作法の本の翻訳などをやって理論的には当時の最先端を行っていたが、監督としての実地の技術は必ずしもともなわず、作品の出来としてはあまりたいしたものではなかったと言われる。この帰山の行動に刺激されて映画界にもようやく純映画劇待望の気運はたかまったが、既成の映画人のなかでこれに応えて最初に純映画劇の試みにのり出したのがカメラマン出身の枝正義郎であった。前記の帰山教正の二作品は声色弁士の反対などによって一年ほどオクラになり、一九一九年九月にやっと公開されたが、翌十月には枝正義郎監督の第一作『哀の曲』が出た。そして作品的には、さすがプロのカメラマンとしての技術をもっていただけに、アマチュアの映画青年だった帰山の作品よりもしっかりしていて、こちらのほうが好評であった。すなわち、日本映画において最初の純映画劇に成功したのは枝正義郎であると言えるのである」。

 「声色弁士」こと活動弁士は、当時の世界を見渡しても日本映画界独特の職業で、その存在を揺るがしかねない純映画運動に反対する声もきわめて大きなものだったようです。もう少し時代は降りますが、無声映画からトーキー映画に移る過程で、われらが凹天も、彼独特のデフォルメされた絵で、時代の趨勢に抗することもできず、職を失う活動弁士やオーケストラの様子を描いています。

  一番座からは、以上です。


ふたたび、裏座の宮国です。
最後の方にふれられていましたが、無声映画とトーキーは、宮古では戦後も見られていたようです。これは聞いた話ですが、市内では、個人でも宗教関連ルートだと本土からフィルムを借りることができたようで、よく映写会が野外で行われたそうです。

また今はなき文化センターの前身である琉米文化会館では、巡回映画会という名前で映画が見られたそうです。

さて、映画館といえば、宮古島は復活をとげた「シネマ・パニック」がひとつだけですが、わたしたちが子どもの頃(1970年代)は、映画館が思い出しただけでも3館ありました。国映館、琉映館、まいなみ、と誰もが呼んでいたと思います。

ネットで調べてみると、まいなみ劇場って、正式名称があって、宮古沖映館だったのですね!びっくりした。そして、前身は菊水館なんですね・・・。

『平良市史 第一巻 通史編Ⅱ 戦後編』(平良市史編さん委員会、1981年)に掲載された宮古島の映画館に関する記述には、<1951年8月から日本映画が正式に輸入されるようになったのを機に、伊波幸夫(いは ゆきお)は菊水館(木造露天)建て映画興行をはじめた(略)その3年後、伊波幸夫は沖映館(コンクリート)建設した>

経営主の伊波幸夫氏は、後に13代平良市長に。

宮古琉映館は前身は『宮古平和館』。真栄城徳松も同じように7・8代市長です。実業家が市長になるという宮古的なルートです。最近は、伊志嶺市長、下地市長、と医者や県職員など変わってきていますが・・・。
第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」

ちなみに、宮古の戦後の変遷を熱く書いている雑誌が宮古にはありました。昭和61年創刊の『月間 みやこ時評』です。新聞で話題になったことを掘り下げて書いています。創刊号は、見ての通り、緊急レポートで迫る平良市市長選を取り上げています。

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その4」


そして、発刊にあたっての言葉を改めて読んでいると、宮古の歴史へのオマージュがまんべんなく散りばめられていて、個人的には胸がワクワクするのでした。

どの記事を読んでも、凹天の時代と同じように、個性的な人々が宮古を盛り上げていたことがわかります。2019年の眼で、1986年を眺めると、現在、宮古が直面しているようなこと(良いことも悪いことも)にはきちんと布石が敷かれていたことがわかります。

凹天達が映画や漫画、風刺画に情熱を燃やしていたころから「ゴジラ」が生まれる土壌ができていったように、宮古も道半ばなのかもしれません。
宮古の歴史は、民衆の歴史だと考えると、事件背景や心温まる細かな取材記事までも宝物のような気がしています。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

枝正義郎(えだまさ よしろう)1888年~1944年
映画監督、撮影技師。広島県佐伯郡玖島村(現・廿日市市玖島)生まれ。1908年、日本で最初に映画の興行に着手したといわれる吉澤商店に入り、目黒行人坂撮影所で千葉吉蔵に師事、シゴキ抜かれ現像と撮影技術を学ぶ。その後、天活(天然色活動寫眞株式會社)に入り、撮影技師、監督となる。ここでは澤村四郎五郎、市川莚十郎の旧劇映画を撮影。天活の技術部長となった枝正は、安易に量産されるようになった映画界の風潮を嫌い、また国産でも外国映画に負けない良質な映画を製作しようと様々な技術開発を進める。1917年に撮った連続活劇『西遊記』は、長尺の2000~3000フィートの作品で、四郎五郎の孫悟空が雲に乗って飛ぶところを移動撮影でとらえたりする工夫がこらされ、枝正の創意が示されていた。カメラ技巧には早くから一見識を持ち、枝正の撮影した作品は、他社作品に比べ遥かに場面転換が多く、他にも大写し、絞りこみなどを各作品に多用、また現場焼付も流麗に仕上げられ、トリックの名手として世に知られた。またこの頃、当時おもちゃ工場で働いていた円谷英二と偶然、飛鳥山の花見の席で出会う。日本映画の底上げをしようと考えていた枝正にとって現行のスタッフでは物足らず、日本ではまだ珍しい飛行機の知識を持ち、玩具で新しいアイデアですぐに成功する円谷は、枝正にとって魅力があった。1918年、天活日暮里で旧劇撮影の傍ら、製作・脚本・演出・撮影もすべて枝正の手によって行われた監督第1作『哀の曲』を撮る。この映画は、海外にも通用するような作品を目指して製作された意欲的な恋愛劇として注目された。1921年、撮影技術研究のためアメリカに渡るが、帰国すると天活は国活に買収されていた。技師長となった枝正は、ここでも幻想的な時代劇『幽魂の焚く炎』を撮り野心作と高い評価を得た。1923年、関東大震災で国活も崩壊。翌年松竹下加茂に移り、これ以降は監督に専念。1927年、阪妻プロへ移り、ダイナミックな演出で阪妻の代表作となった『坂本竜馬』などを発表。翌年東亜キネマに監督部長として迎えられるが退社して独立。1934年、得意のトリック撮影を生かして自主制作を続けた。以降は大都映画技術部総務、大映多摩川撮影所庶務課長を歴任。1944年、結核のため死去。

円谷英二(つぶらや えいじ)1901年~1970年
映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)の初代社長。本名は、圓谷 英一(つむらや えいいち)。1901年、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)で誕生する。生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。1908年、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。1911年、巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味をもつ。1914年、尋常小学校高等科に入学。1916年、尋常高等小学校8年生の課程を終える。同年、家族が大反対する中、操縦士を夢見て、玉井清太郎の紹介で、東京航空輸送社が8月に開校したばかりの日本飛行学校に第1期生として入学。入学金は、当時、新築の家が2軒建てられた600円したが、叔父の一郎が工面してくれた。1917年、日本飛行学校が帝都訪問飛行に失敗し、1機しか無い飛行機が墜落。教官・玉井清太郎の死も重なり、同校は活動停止。夢は破れ、退学。同年、東京・神田の電機学校(現・東京電機大学)に入学。この頃、学費の足しにと、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社の考案係嘱託となり、「自動スケート」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、玩具の考案で稼ぐ。1919年、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工達を引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工達が隣席の者達と喧嘩を始めた。年若い円谷がこれを仲裁したことで、喧嘩相手だった天然色活動写真株式会社の枝正義郎に認められ、映画界に入ることとなる。同社はこの年、国活(國際活映株式會社)に吸収合併される。同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影する。1920年、会社合併に伴い、国活巣鴨撮影所に入社。国活ではカメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て見事やり遂げ、一気にカメラマンに抜擢される。1921年、兵役に就き、1923年、除隊。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影。1927年、林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップさせる特撮手法を採り入れ、映画は大成功となった。1930年、荒木マサノと結婚、「円谷英二」と名乗る。1931年、渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平とともに撮影。ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。長男一が誕生。この頃、「アイリス・イン、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「フェイド・イン」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒を奢る日々だった。1932年、杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人らと日本カメラマン協会を結成する。犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。同年、映画『キング・コング』日本公開。試写で同作を鑑賞した円谷はこの特撮に衝撃を受け、フィルムを独自に取り寄せ、一コマ一コマを分析し研究した。1934年、『浅太郎赤城颪』でスタアだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社する。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。1935年、アニメ作家政岡憲三と組み、人形アニメ映画『かぐや姫』を撮影。1936年、ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用。この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。1937年、株式會社冩眞化学研究所、PCL映画製作所、東宝映画配給の3社と、円谷の所属するJOが合併し、「株式会社東宝」が設立される。1939年、陸軍航空本部の依頼があり、嘱託として埼玉県の熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画を演出兼任で撮影。『飛行理論』の空中撮影を、円谷は1人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露してみせ、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『飛行機は何故飛ぶか』『グライダー』にも活用された。また、『嗚呼南郷少佐』を監督した。1940年、『皇道日本』で撮影を担当。同年の『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、経歴上初めて「特殊撮影」のクレジットがついた。1941年、太平洋戦争突入。これにともない、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなる。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画全てを担当していく。同年、『上海の月』で、上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当。その後も戦争中は、特撮物で大評判であった。同年、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも敗戦。1952年、日本独立後の公職追放解除を受ける。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込む。この年、東宝は1億6千万円かけて、砧撮影所を整備。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させる。また、「円谷特技研究所」の有川貞昌、富岡素敬、真野田陽一、樺島幸男らを正式に撮影所に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。こうした中、満を持して戦記大作『太平洋の鷲』が企画される。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な絵コンテ)が導入された、初の特撮映画である。この映画に特技監督として招かれた円谷は、松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり、その後長きに渡って名コンビを組むことになる監督の本多猪四郎とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた。この年、日本初の立体映画作品、『飛び出した日曜日』(村田武雄監督)、『私は狙われている』(田尻繁監督)で立体撮影を担当。また、企画部に「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込む。田中友幸はこれが『ゴジラ』の草案の一つとなったとしている。1954年、田中友幸プロデューサーによって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、これは日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たる。この『ゴジラ』から、飯塚定雄、井上泰幸、入江義夫、開米栄三らが特技課に加入。11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒット。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞する。その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画において特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。1956年、日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣ラドン』を担当する。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降これが定番フィルムとなる。1957、東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れて再編成する。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。1959年、6200万円の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰される。1960年、当時プロデュース業に乗り出していたカーク・ダグラスが、「世界の円谷にぜひアニメの監督を」と、ディズニー社を後ろ盾に、アニメ映画制作の声をかける。東宝側の森岩雄は断ったものの、ダグラスにかねて熱望していたオックスベリー社の合成機器オプチカル・プリンターの提供まで含めて直接話を持ちかけられた円谷は、自宅の円谷特殊技術研究所のスタッフでは賄えないと、先んじてアニメ会社ピープロを設立していた鷺巣富雄に協力を依頼。合資会社として2人の頭文字をとった「TSプロダクション」の設立構想に発展するが、ダグラス側の提示した契約内容が折り合わず、頓挫。1963年、東宝との専属契約解除。同年、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、「株式会社円谷特技プロダクション」を設立、社長に就任。フジテレビの映画部にいた息子円谷皐が監査役に入り、「円谷特技研究所」時代の弟子である高野宏一、中野稔、佐川和夫、金城哲夫らをスタッフに招き、同プロの初仕事として、日活・石原プロ提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作した。この年、フジテレビは円谷皐を通し、円谷特技プロに国産初のテレビ特撮シリーズ『WOO』の企画を持ち込む。最終的に局の事情でこの企画は頓挫したものの、円谷は同企画の特撮用に、アメリカ「オックスベリー社」に当時世界で2台しかなかった最新型のオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を発注していた。慌てた皐はキャンセル打診したが、既に出荷後だった。このため、TBSの映画部にいた長男の円谷一に依頼し、この高額機材をTBSで引き受けてもらうこととした。また、東宝撮影所にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンター「シリーズ1900」が設置される。1966年、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組作りもあり、同番組は大ヒット。この『ウルトラQ』は日本全国に一大「怪獣ブーム」を巻き起こすこととなった。続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を放映開始。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターはさらに怪獣ブームを煽った。これらのヒットによって「円谷英二」の名はお茶の間の隅々にまで知れ渡ることとなり、特撮の神様とまで呼ばれるようになった。また、大阪万博の三菱未来館の映像担当が決まり、カナダへ外遊してモントリオール万国博覧会を視察。この外遊中には招かれてアメリカで『エド・サリヴァン・ショー』に出演、また、イギリスにも歴訪し、ジェリー・アンダーソンのAPフィルムズを訪れ、『サンダーバード』の特撮現場を見学。円谷は翌年に円谷特技プロで制作する『ウルトラセブン』『マイティジャック』のメカ描写で、「『サンダーバード』に追いつけ」として、同作をかなり意識した制作姿勢を見せている。またこの年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で「ゴジラシリーズ」から身を引き、弟子の有川に特撮監督の座を譲った。1969年、『緯度0大作戦』『日本海大海戦』が最後の特撮劇場作品となる。監修としてクレジットされている『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』は、翌年の大阪万博の三菱未来館のサークロマ撮影のため、多忙で実際には関わっていない。このサークロマ撮影のため鳴門の渦潮をロケし、さらに特撮プールに自ら入り演出。これがたたって体調を崩すが撮影を強行し、一時入院。静岡県伊東市浮山の別荘へ居を移す。1970年、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去。

小林喜三郎(こばやし きざぶろう)1880年~1961年
実業家、映画プロモーター、映画プロデューサー。1880年、茨城県に生まれる。1910年、映画会社・福宝堂の取締役営業部長に就任した。フランスの探偵映画『ジゴマ』を買いつけ、『探偵奇譚ジゴマ』の題で1911年、浅草公園六区の金龍館で公開、大ヒットなる。同館を経営する根岸興行部にパイプを築く。ジゴマの小林、腕の喜三郎の異名をとる。1912年、福宝堂が4社合併により日活となると、小林は同社の本社営業部に席を置いた。浅草公園六区に根岸興行部が経営する常盤館から、日活の新作の滞りを指摘されると、同年12月、常盤商会を設立、日暮里に撮影所を開業、独自の作品を製作・供給した。1914年、小林は福宝堂関西営業部長であったときからの盟友・山川吉太郎とともに天然色活動写真(天活)を設立、常盤商会はこれに吸収された。1914年、天活の配給・興行を行なう小林商会を設立、1915年には三葉興行を設立した。1917年、小林商会が、日本初のアニメーション映画のひとつ、幸内純一監督の『塙凹内名刀之巻』を発表したが、同年倒産した。1919年、D・W・グリフィス監督の超大作スペクタクル映画『イントレランス』(1916年)の日本での興行に打って出た。入場料を「10円」という高額に設定、大ヒットした。この興行で得た資金で、国際活映を同年に設立した。1920年に設立された帝国活動写真(松竹の前身の一社)の取締役に名を連ねる。国活は、1925年に倒産した。後年には、日活の経営などにも関与する。1945年、第二次世界大戦後は日活で監査役を務める。1961年、自宅で、脳動脈硬化症のため死去。

帰山教正(かえりやま  のりまさ)1893年~1964年
映画理論家、映画監督、脚本家。1893年、東京市麹町区麹町四番町(現・東京都千代田区麹町)に、父・信順と母・トキの長男として生まれる。父の信順は東京府立第一中学校の化学教師だった。東京高等師範学校附属小学校、同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、東京高等工業学校機械科に入学。在学中から錦輝館に足繁く通い、映画に耽溺する。吉沢商店が出資した映画雑誌『活動写真界』に、夏渓山人の筆名で映画批評や紹介を執筆するようになり、1913年には、同人誌『フィルム・レコード』(同年末に『キネマ・レコード』に改称)を刊行した。1917年、天活の東京本社輸入部へ入社、外国部員兼映写技師として働く。同年、映画理論書『活動写真劇の創作と撮影法』(正光社)を刊行、同書で舞台脚本からシナリオへの切り替え、女優の採用、リアリズムの追求、撮影技法の改革、字幕を使用することなどを掲げ、純映画劇運動を提唱。帰山は天活の上層部を説得して映画製作を行い、それらの理論を基に第1作『生の輝き』及び第2作『深山の乙女』を製作、翌1919年、同日公開された。俳優陣には新劇団「踏路社」の村田実、青山杉作、近藤伊与吉と芸術座の花柳はるみを使い、特に主演の花柳は日本の映画女優第一号となった。1920年公開の『白菊物語』から「映画藝術協會」を名乗り、日本初の芸術映画プロダクションとして十指に近い製作活動を行う。これに刺激され、松竹キネマ、大正活映などが、「新しい映画製作」を標榜して続々と世に出てくることとなった。その『白菊物語』は、イタリアのロンチ商会の依頼により同国への輸出を目的として製作され、吾妻光(後の大仏次郎夫人)を起用。1921年、松竹蒲田撮影所に招かれて『愛の骸』を監督するが、大阪で公開されたものの、東京では上映禁止となった。また、次に製作した『不滅の呪』は未完に終わった。その後も、1922年に桑野桃華プロダクションで『噫!祖国』を撮り、1923年には当時の配給提携先であった帝国キネマで『父よ何処へ』を製作する。一方、映画芸術協会では興行的不振が続き、折から関東大震災も発生したため、1924年公開の『自然は裁く』を最後に製作活動を停止した。1926年の『少年鼓手』が最後の監督作品となり、その後作品を発表する機会は失われた。残した作品はすべてサイレント映画だった。映画理論家としての活動はその後も継続し、映画雑誌『国際映画新聞』(1927年~1940年)に執筆参加している。1918年と『寂しき人々』を撮ったが、には『映画の性的魅惑』を上梓、映画が表現するエロティシズムにフォーカスした学術的研究で、先駆的な書物である。戦後も、映画の技術的側面に特化した執筆を続けた。1964年、自宅で心臓衰弱のため死去。

伊波幸夫(いは ゆきお)1928年〜2013年
政治家。宮古島市(旧平良市)西里出身。台中州立二中卒。1961年平良市議初当選し、81年まで連続5期20年務める。72~77年まで同市議会議長。82年平良市長選に出馬し初当選。1期務める。市長在任中、「スポーツアイランド宮古島」の足掛かりとなる「スポーツアイランド構想」を策定。2000年春の叙勲で勲四等旭日小綬章(地方自治功労)を受章した。観光功労が認められた。同年、従五位の叙勲。
【2020/09/09 現在】






同じカテゴリー(Ecce HECO.(エッケヘコ))の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。