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2019年07月19日

第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その3」

第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その3」

まずは、毎度おなじみ。裏座から宮国でございます。
今回も、柴田勝(しばた まさる)について、続けます。

前回の繰り返しになりますが、柴田勝は、凹天が商業アニメーション映画制作を支えた時期の撮影技師のひとりでした。
柴田勝が、筆マメだったおかげで、アニメ黎明期と言われる当時の様子がよく分かります。
第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その3」

前回、高村光太郎(たかむら こうたろう)、智恵子(ちえこ)や凹天と最初の妻・たま子などカップルを取り上げました。世相は、凹天のようなイケイケ男子(ふ、ふるい・・・)やら、芸術青年がいろんな表現がしていたのですね・・・。

柴田勝は、1897年に生まれ、1991年に亡くなっています。
1897年は、宮古では、三間切を廃止して、宮古一間切一郡となった頃です。その6年後の1902年には寄留民、いわゆる移住者の人口が記録されています。106人、35戸。意外と少ない、と思ったのは私だけでしょうか。

同年、宮古・八重山には徴兵令が施行されます。
1903年は、人頭税廃止。1904年には、日露戦争が始まります。島の人は、人頭税がなくなった代わりに、徴兵令を引き受けたのかもしれません。

日本では、徴兵令は1873年に公布。日本から遅れること、約30年でした。

亡くなった1991年は、第五回柳田國男(やなぎだ くにお)ゆかりサミットが宮古で開催されたのは、なんとなく不思議なご縁を感じます。

 こんにちは。一番座から片岡慎泰です。

 さて、ここから柴田勝の実人生について、もう少し詳しく述べておきます。

 柴田勝の父親は、当時の駒形劇場、現在の「駒形どぜう」浅草本店の横通りにあった蓬莱座という小劇場の中茶屋を営んでいました。

 柴田勝が15歳の時には、淺草寿町に住んでいたので、100mほどの近さ。半ば手伝い、半ば遊びで蓬莱座に毎日通っていました。

 蓬莱座は、毎月歌舞伎を興行していました。そこで、はまったのが狂言の『熊谷陣屋(くまがいじんや)』。後年もこの演目が上演される際には、ずっと見続けたと記しています。近くにあった淺草六区にも毎日のように通っていました。






 食べ物で好きだったのは『かめチャブ』の牛めし。ここはサトーハチローの贔屓の店でもありました。ところで、淺草六区に通うことは、悪い遊びを覚えることでもあります。われらが凹天も、ここでの風俗を何度も描いています。

 父親は、柴田勝がそちらの方向に進むことを心配して、芝居の看板屋だった荒井卯之助(あらい うのすけ)に弟子入りさせます。そこの一人娘だった「おもんちゃん」と仲良しになります。

 後年、父親に尋ねると、この子と添い遂げさせる予定だったとのこと。1912年、明治天皇が崩御。蓬莱座にも遥拝所(ようはいじょ)が設けられます。遥拝所とは、本当は直接拝みたい神仏があるものの、諸事情で、そこまで行けない場合に、代わりに見立てて拝む場所のことです。

 琉球弧の言い方をすると、本来拝みたい御嶽の途中にあって、それをつなぐための御嶽に当たります。呼称としては、中取りとも。宮古にも遥拝所として下地神社があります。赤崎御嶽を拝むためと言われています。


第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その3」

  さて、その頃、映画界初めてのヒーローが登場します。その名は尾上松之助(おのうえ まつのすけ)二代目。佐藤忠男著『日本映画史Ⅰ』には、こう記されています。

 「最初のスーパースターは尾上松之助だった。1909年(明治42年)から1926年(大正15年)までに彼は1000本以上の映画に主演している。(略)当時、日本で演劇といえば歌舞伎であったから、草分け時代の映画人が劇映画を作ろうとするとき、歌舞伎をそのままフィルムにおさめようと考えるのは自然なことだった。(略)映画は最初、こうして芝居のコピーだった。技術的に幼稚だったから安物のコピーだったと言ってよい。安物のコピーに飛びついたのはまず子どもだった。安物だからデリケートな心理描写などはコピーできなかったが、荒っぽい立廻りや大見得ならば幼稚な技術でも可能だった。子どもたちは彼に”目玉の松ちゃん”の愛称を与え、彼を日本一強い男だと思った」。

 ちなみに、二代目という記録は、尾上松之助の自伝に基づいているのですが、襲名披露の記録から、いわゆる歌舞伎役者というより、実際には、ドサ回りの旅役者だったというのが、本当のようです。





 しかし、柴田勝は尾上松之助が好きではありませんでした。幼い頃から芝居を観る眼が養われていたからでしょうか。尾上松之助は、先ほど引用した『日本映画史Ⅰ』の記述からも感じられますが、知識人や大人に不人気だったとの記録も残っています。例えば、谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)は、次のように述べています。「全くあの松之助の写真を見ては、日本人の劇、日本人の顔が悉く醜悪なものに思われ、あれを面白がつて見物する日本人の頭脳や趣味が疑はれて、日本人でありながら日本と云ふ国がイヤになつた」。

 ここでは、尾上松之助の存在が、『児雷也』(1914年)など忍者物というジャンルを作り出し、トリックなど映像技術の進歩に大いに貢献したこと、彼の存在感が後年『ゴジラ』(1954年)など日本を代表する怪獣物を生んだことだけは、特筆しておきたいと思います。

 柴田勝は、尾上松之助一色になった淺草六区からも自然と足が遠のいた1912年に、芝居絵師の鳥居清忠(とりい きよただ)に弟子入りします。しかし、職人修行の辛さや長さに音を上げ半年で辞めます。

 その後、袋物屋、三越造花部の家を転々。そして、1915年淺草御國座で観た天活所属の井上正夫(いのうえ まさお)が中心になって演じた連鎖劇に魅了されて、前年設立された天活に入ろうと決心します。面接に向かうと、ちょうど軍隊に入営する人がいるからという理由で一発合格。柴田勝は、渋谷の次兄のところに住み始めます。

 その作品は、現時点での調査では分かりませんが、『塔上の秘密』、『地獄谷』、『不如帰』、『女かがみ』、『義理のしがらみ』、『白菊表紙』、『小夜嵐』、『こがらし』のいずれかです。

  連鎖劇について、興味深い視点から述べた論文がいくつかありますが、私自身としては、今後の展開を期待したいところです。というのも、フィルムが未発見。ここでは、井上正夫と柴田勝の記述を引用をしておきます。


第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その3」

 井上正夫の記述。「『連鎖劇』といつても、今の若い方々の中には知らない人も多いことゝ思ひますが、大正の初めから中期にかけて、大變な人氣を湧き立てたものです。要するに、舞臺劇の間々に映畫を挟んで見せるので、舞臺では充分に效果の出し得ない亂闘の場面だとか、追つ駈けの場面だとかを、初日前にロケーションに行つて撮影して來るのです。前の場面が終ると、舞臺の電氣がパッと消えて、活動寫眞が映るといふわけです。役者はカーテンの裏が降りて來る。場内の電氣がパッと消えて活動寫眞が映るといふわけです。役者はカーテンの裏か舞臺の袖にかくれてゐて、映畫に合せて臺詞だけ喋るのです。もつとも、その頃はまだ映畫などといふ言葉が出來る前で、専ら活動寫眞といつてゐました。そして活動寫眞の場面が濟むと又カーテンが上り、パッと場内の電氣が明るくなつて、次の實演の場面に變るのです」。

 柴田勝の記述。「連鎖劇というのは、一つの劇の中に映画と実演とを適宜に組み合わせて場面の変化を求めるつまり舞台で現わし得ない場面、たとえば自動車の追跡とか、飛行機の飛んでいるとか、水中の格闘とかの場面をフイルムに撮影して実演の舞台に接続する新しい演出法と認める価値がある。また舞台劇に於ける長時間の幕間という不愉快を感ずることもなく劇がスムーズに進行するという特徴がある」。

 ある程度、年配の方なら、柴田勝のこちらの記述の方が、イメージが湧きやすいかもしれません。「明治三十七年(1904)日露戦争のとき東京の真砂座で実演のあいだに活動写真を見せた、これが連鎖劇の最初で、一時中断していたが、昭和五十四年十一月、市川猿之助により、新形式の連鎖劇を池袋サンシャイン劇場で復活した、これで連鎖劇という忘れさられていた名称が、夢物語では無くなった(略)」。ここでの作品ではありませんが、YouTubeで、平成に蘇った連鎖劇を観ることができます。





 連鎖劇は、1904年中洲眞砂座で上演された『征露の皇軍』という劇中で、敵艦に魚雷を発射し、それが命中して撃沈するところを映画にしたのが最初。井上正夫は、その時、大部屋にいた劇役者のひとりでした。中洲のあった場所は、井上正夫著『化け損ねた狸』(右文社、1947年)から引用しておきます。「中洲は隅田川が新大橋の下流で二股に分れ、日本橋區側に掘割りが流れてゐる。それが永代橋の上流箱崎の河岸で又隅田川に合流してゐますが、そのあいだの三角州の名稱です。眞砂座はそのほゞ中央にあつた劇場で、觀客は千人ほども収容できるかと思われる、さして大きくもない小屋だつたのです」。

 宮古ファンとしては、「征露」という言葉に思わず反応してしまいたくなります。「遅かりし1時間」!

 なお、私の選択した第二外国語はロシア語ですので誤解なきよう、今回の一番座を終えたいと。


第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その3」
第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その3」
第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その3」


裏座の宮国です。はて?連鎖劇とはなんだろう・・・と思っていると、ある本で見つけました。林芙美子(はやし ふみこ)の新版、放浪記での記述です。

「『ひろちゃん』干物屋の売り子で 、十三の少年だけれど 、彼の理想は 、一人前の坑夫になりたい事だった 。酒が呑めて 、ツルハシを一寸高く振りかざせば人が驚くし 、町の連鎖劇は無料でみられるし 、月の出た遠賀川のほとりを 、私はこのひろちゃんたちの話を聞きながら帰ったものだった」。

当時の北九州は、炭鉱町。林芙美子は、娘時代を過ごした時期をさまざまに描写しています。彼女は、栗(あわ)おこし工場に勤めていましたが、一ヶ月二十三銭という給金でした。
一方、宮古では、1903年は人頭税が廃止され、宮古上布は自由に織ることができることになった頃でした。総生産量は3741反で16,362円。主要な現金収入となりました。内職の域を出ないがらも、子弟の進学資金になった、と『みやこの歴史 第一巻』(宮古島市教育委員会、2012年)には書いてあります。

林芙美子の娘時代は困窮の描写ばかりですが、宮古は、人頭税が廃止された時点で、女性が主たる働き手になっていく歴史が始まったとも言えます。

当時、宮古上布は、砂糖、鰹節と三大重要物産でした。十五年後の1918年には、一反の価格は、10円〜13円が300円以上に達したこともあります。ですが、1942年をピークに減反の一途をたどります。

東京では、映画と演劇が一体になったような新しい潮流が生まれていくなか、宮古は産業の胎動が始まったとも言えます。島と本土は、中身は違いますが、女性たちの生き方が多様になってきた分かれ目のように感じます。

高村光太郎の妻、智恵子のように、実家が傾き、心が壊れてしまいました。凹天の妻のたま子も同じようでした。その頃、「私にはふる里がない」と書いた作家の林芙美子は炭鉱町で日々のお金を稼ぐ毎日。宮古の女性は、宮古上布を織り、産業の中心とさせます。

その間、明治時代の終わり頃から、大正時代、昭和時代と時代は流れていきますが、欧米のやり方を取り入れ、近代化に向かったといえます。特に大正時代は、東京駅が完成し、そのまわりも近代的なビルディングが登場しましたサラリーマン時代の幕開けとなり、昭和、平成、令和と続く大衆的な文化の担い手に続きます。女性の社会進出としては、職業が多種多様になったと言えます。たとえば、記者や医者、バスガール、デパート店員。

今では当たり前の職業が始まった頃だとも言えます。人頭税廃止から120年近くたって、宮古上布の売上で学校に行けた宮古の男性だけでなく、宮古の女性も本土で学んだり、仕事ができるようになったといえます。

凹天のおかげで、宮古の女性の環境が猛スピードで変わってきたことを体感する回になりました。たんでぃがーたんでぃ。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

荒井卯之助(あらい うのすけ)
芝居看板屋。詳細不詳。鋭意調査中。

鳥居清忠(とりい きよただ)
芝居絵師。詳細不詳。鋭意調査中。

尾上松之助二代目(おのうえ まつのすけ)1875年~1926年
役者、映画俳優、映画監督。本名は中村鶴三(なかむら つるぞう)。1875年、岡山県岡山市西中島町70番地(現・岡山市中区西中島町)に、父・幾三郎、母・花の3男1女の次男として生まれる。岡山環翠小学校高等科(現・岡山市立旭東小学校)卒。父は岡山池田藩の二十一俵三人扶持の下級武士だったが、明治維新後は遊郭地の西中島町で貸座敷業を営んでいた。その影響で幼いころから遊芸を親しむようになる。家の近くには旭座という芝居小屋があり、そこに上方歌舞伎の大立者・二代目尾上多見蔵が一座を組織していたが、実家の商売が商売だけに一座と懇意だった縁で多見蔵に請われ、5歳の時に『菅原伝授手習鑑』の菅秀才役で初舞台を踏む。この時にある人の周旋で尾上多雀(多見雀・多若の説もある)という名をつけられた。母はこの初舞台を非常に喜び、抱えの芸娼妓に三味線と踊りを教えに来ていた山村イチに遊芸を仕込んでもらう。これがきっかけで9歳頃から子供芝居に出演。役者になることを快く思わなかった父によって、市内上之町の呉服屋に奉公させられる。しかし、どうしても役者になりたくて、父に頼んで子供芝居に出演するとこれが好評で、芝居打ち上げの後に家出をし、神戸の知り合いを頼って弁天座の浅尾與作一座に。各地を巡業。一座も転々と。1895年には、博多・明治座で五代目實川正若・嵐若橘一座に出演、その間に弟を大阪の知人の許へ奉公へ。博多打ち上げ後、下関で徴兵検査。それから間もなくの4月に下関条約が結ばれるとともに芝居の人気も取り戻し、大阪市西区松島に居を構えて巡業を続けた。1899年、神戸・朝日座の主任となり、同年4月1日からは同座で中村駒之助と一座する。1904年、三代目市川荒五郎から名題昇進の免状を貰い、二代目尾上松之助を襲名。襲名披露は神戸・相生座で市川蝦十郎らと一座して行う。同年、大阪九條の繁栄座に出演中、母と舞台を観ていた牧野省三に招かれ、彼の経営する千本座に出勤する。1909年、横田商會の横田永之助から活動写真を撮らないかという話がきて、牧野と相談の上、話がまとまる。牧野はこの前年に『本能寺合戦』など6本の活動写真を横田の依頼で撮り、1本30円では儲けもないと、一旦製作を停止。そこへ松之助の起用が決まり、製作再開となった。松之助の主演第1作『碁盤忠信 源氏礎』は、千本座裏の大超寺境内で撮影された。続けて『木村長門守』『石山軍記』の2本を撮り、後者では楠木正具に扮した松之助が櫓の上で御文章を読み上げながら敵の軍勢を睨みつけて、大きな目玉をギョロリとむいて見せた。観客は「よう、目玉!」「目玉の松っちゃん!」と掛け声をかけ、それ以来「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれるようになった。こうして松之助は牧野と共に横田商會の重要な一員となった。1921年に松之助は牧野の後任として日活大将軍撮影所長に就任。松之助映画は、歌舞伎・講談の英雄豪傑を舞台そのままに演じ、殺陣は歌舞伎を踏襲したり、女役は女形が演じるなど、古風な製作を行っていたが、女優を起用したリアルな殺陣による革新的な時代劇映画に押され始め、人気も下り坂となっていた。1924年、池田富保監督の『渡し守と武士』では松之助映画で初めて女優を登用し、後に大衆小説の映画化にも乗り出している。1925年、主演1000本記念大作として製作した『荒木又右衛門』では、従来の歌舞伎調の立ちまわりを脱しリアルな殺陣を演じて大ヒットした。晩年は、学校や福祉事業に巨額の寄付を投じ、京都府へ1万3千5百円を寄付して、その資金で出世長屋と呼ばれる府営住宅を建設した。ほか京都市へ1万円、京都府小学資金へ1万円、海員救済会に5千円、赤十字社へ3千円、二商プール建設費5千円、その他合わせて約5万円の寄付を行った。1924年、これらの功績で藍綬褒章と赤十字有功章を受章。1926年、自宅で心臓病のため死去。

谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)1886年~1965年
小説家。現在の東京都中央区生まれ。一高、東大に進み、小山内薫らと第二次『新思潮』を創刊。『象』、『刺青』などの作品で永井荷風(ながい かふう)に認められ、文壇に登る。震災後関西に移住し、『卍』、『春琴抄』など、谷崎文学の頂点ともいえる作品を著す。耽美主義の代表者とされるが、実際には、作風や題材は変わり続けた。戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』を皮切りに、『鍵』、『瘋癲老人日記』といった傑作を発表。受賞多数。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年と1960年から1964年まで7回にわたって選出される。1965年、東京医科歯科大学附属病院に入院。腎不全に心不全を併発して死去。

井上正夫(いのうえ まさお)1881年~1950年
俳優、映画監督、書家。1881年、愛媛県下浮穴郡大南村(現・伊予郡砥部町大南)中通に父・春吉と母・タイの長男として生まれる。父の春吉は砥部焼仲買人で、砥部座という劇場の支配人でもあった。1891年、11歳の時に初めて村芝居に出演。尋常小学校卒業後、砥部焼の陶器店へ丁稚奉公させられるが、1895年に家出。翌1896年に大阪で働いていた時に道頓堀角座で成美団の芝居『百万円』を観て俳優を志す。1897年、松山市の新栄座に来演していた新演劇の敷島義団に入り、小坂勇二を名乗って初舞台を踏んだ。ついで矯風会に入り、品川進と改名。1898年には博多で酒井政俊一座に加わり井上正夫の名で舞台に立つ。その後幾つかの劇団を転々とするうちに高田実の知遇を得る。1904年に上京、真砂座の伊井蓉峰一座に加入し、幹部待遇となる。翌1905年、田口掬汀作『女夫波』の橋見秀夫役で人気を得、1906年には島崎藤村作『破戒』の井川丑松役に大抜擢。1910年、新しい演劇を目指して新派劇を離れ、有樂座と契約して新時代劇協会を結成する。第1回公演はバーナード・ショー作の『馬盗坊』で、同協会には小堀誠、立花貞二郎、岩田祐吉、酒井米子らが参加した。旧来の演劇に抗して女優を起用するなど新機軸を打ち出すも、一般大衆の支持を得るにはいたらず、経済的には赤字となり、1911年に解散。解散後は新派に戻る。1915年、新派を再び離れ、天活と契約を結び、淺草みくに座の連鎖劇に出演する。その第1作『搭上の秘密』で初監督。1916年に天活創立者の小林喜三郎が同社を辞めて小林商會を設立すると、井上も同商会へ引き抜かれ、1917年に連鎖劇の『大尉の娘』『毒草』で監督・主演する。この2作では、クローズアップやカットバック、移動撮影、説明字幕の導入など、当時としては革新的な撮影技法を用い、映画の新時代の扉を開いて純映画劇運動を展開することとなる。同年、小林商會は倒産し、井上は再び新派に。以後は大幹部俳優となり、1919年に明治座で『酒中日記』を上演し、主人公・大河今蔵の演技で第1回国民文芸会賞を受賞。1920年、国活が設立されると、小林の懇請で月給4千円という高給で入社。その年に撮影所長の桝本清とともにアメリカ映画界の視察を行う。1921年に帰国第1作となる畑中蓼坡監督『寒椿』に主演するが、1922年、国活の没落で松竹蒲田撮影所に移籍。1923年、ヨーロッパに渡り、翌1924年(大正13年帰国。1925年、日本初のラジオドラマ『大尉の娘』に水谷八重子とともに出演。1926年、衣笠貞之助監督で新感覚派映画連盟製作の映画『狂つた一頁』に主演。同作は後に海外でも高い評価を受ける作品となった。その後も松竹で数本の映画に出演。1936年、新派と新劇の「中間演劇」を唱えて井上演劇道場を設立し、芸術的な大衆演劇を上演する一方、後進の育成に努める。久板栄二郎作『断層』、三好十郎作『彦六大いに笑ふ』、北条秀司『華やかな夜景』、八木隆一郎『熊の唄』といった戯曲を上演し、反ナチス劇の『プラーグの栗並木の下』の主演などで好評を博す。道場には岡田嘉子、山村聡、鈴木光枝、松本克平らが所属。新劇演出家の村山知義、杉本良吉らを起用した。1946年、井上演劇道場を解散し、村山知義、薄田研二らの第2次新協劇団に入団。1948年からは、また新派の舞台に立ち、水谷八重子と『金色夜叉』で共演。1950年、静養先の湯河原向島園で心臓麻痺のため死去。 

林芙美子(はやし ふみこ)1903年〜 1951年
小説家。門司市(現・北九州市門司区)生まれ。下関市説もある。出生届は叔父の家である現在の鹿児島市。行商の母と義理の父との生活で、北九州、長崎、佐世保、下関、東京と過ごした日々を文学として昇華させた。尾道市立学校(現・広島県立尾道東高等学校)に進学。その時期に文学的才能を開花させた。卒業直後の1922年、遊学中の恋人を頼って上京。下足番、女工、事務員、女給などで自活する。両親も上京して、露天商も手伝う。辻潤、平林たい子らとの交遊があり、代表作『放浪記』では、その時の様子が活写されている。1930年に改造社から出版された『放浪記』はベストセラーになり、流行作家になる。パリ、ロンドンに在住する作家、その後は、南京、満州、朝鮮、シンガポール、ジャワ、ボルネオなど戦線を取材する新聞特派員として、精力的に活動した。その後も作家として、講演活動も行ったが、自宅で心臓麻痺のため急逝。旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。
【2020/09/09 現在】



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