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2018年04月20日

第1回 「巨星、墜つ。」

第1回 「巨星、墜つ。」

下川凹天(しもかわへこてん)。
明治の世。宮古島に生まれ、日本で初めてアニメーションを作った男。

兎にも角にも、生涯ペンを折ることがなかった凹天に興味をもち、ATALASネットワークでは凹天チームを結成して、あれやこれやと調べて始めました。掘れば掘るほどに、噛みしめれば噛みしめるほどに、凹天の物語があまりにも面白く、この面白さを多くの人に、少しでも知って欲しいと、「Ecce HECO.」をスタートさせることにしました。ところが凹天の物語~人の一生~を語るということは、あまりに細かく、あまりに深く、あまりにも複雑でした。そこで担当を決めて、「ふたり語り」で挑むことにしました。

一番座”番は、片岡慎泰(Noriyasu Kataoka)。がっちりと主軸の下川凹天の物語を担当。
裏座”番は、編成とストーリーテラーを担います。別名を狂言回し担当の宮国優子(Yuko Miyaguni)。
このふたりを軸に、ATALAS凹天チームが一体となって、「Ecce HECO.(エッケ・ヘコ) 見よ!凹天を!~日本で初めてアニメを作った男~」をお届けいたします(毎月第三金曜日)。

ではでは。時代と場所の世界線をこえて、まるで探偵のようなしつこさで凹天に迫ってみましょう。いざっ!

※      ※      ※      ※      ※

まずがーと、裏座からんみゃーち!。
宮国でございます。どうぞよろしく!。

第1話のタイトルは、「虚勢、乙!」・・・ではなく、「巨星 墜つ」です!。
って、出オチしてる場合ではありませぬ。
われらが凹天こそ、宮古の巨星!。

ATALAS凹天チームは、この連載を始めるにあたって、まず下川凹天の最期から調べることにしました。

まずは、亡くなった場所から始まります。
当時、結核医療で最先端の病院。茨城県の利根川沿いにあり、千葉県との県境のほど近く。

私の住む東京・大岡山からだと電車で二時間半、下総神崎駅から送迎バスという地域密着型の大病院です。車だとこんな感じ。凹天先生、終の「終の棲家」の千葉・野田を中継地点にしてみました。

120キロだそうです。あがい、宮古本島一周とちょうどおんなじくらいさいが!122キロなので、ほとんど変わらん!。
第1回 「巨星、墜つ。」
ちなみに、かの久松五勇士は、およそ120キロ移動しました(諸説あります)。久松のウプドマーラ(大泊)から、石垣島の北部・伊原間に上陸し、八重山郵便局まで最速でたどり着いたという、猛者すぎる話を思い出しました。そんなことを考えると、だいず、うむっしだよ、宮古の歴史。

あっ!あちこーこー(熱くなってしまった)ところで、どうぞ一番座へ~!。

 一番座へようこそ、片岡慎泰です。

 沖縄が日本に復帰した翌年の1973年5月26日、茨城県稲敷郡東村幸田1273(現・稲敷市幸田1247)の宮本病院水郷荘でひとりの男が息を引きとりました。享年82歳。5月2日に誕生日を迎えたばかりでした。
第1回 「巨星、墜つ。」
 名前は下川貞矩(しもかわ・さだのり)。かつて“凹天”というペンネームで一世を風靡した漫画家です。
 死因は肺結核。
 結核はかつて「死病」といわれてました。伝染性の病気のため、長期的な療養をする場合はサナトリウムに入りました。そのため、画家のムンクや小説家のトーマス・マン、本邦では俳人の正岡子規や映画家の黒澤明、最近ではスタジオジブリの『風立ちぬ』(2013年)など多くの芸術家をインスパイアさせ、作品も多く作られました。
第1回 「巨星、墜つ。」
 私事になりますが、私の母方の祖父も結核になり、母は、家じゅうが食器類まで消毒され、祖父の居る部屋に入ることも許されなかったと語っています。
 現在では厚生労働省が主管する『人口動態調査』によれば、当時の死亡率は人口10万あたり、11.1名です。かつて死因の第1位だった頃は、100名以上が常態化してたのと比べると、隔世の感があります。
 宮本病院は、当時と同じ場所にありますが、凹天が運ばれた年に、結核病棟が開設されたばかりでした。もし、結核だったとしたら、野田醤油(現・kikkoman)の「食客」として、醤油会社創業一族の茂木家が下川凹天をいかに大切にしていたかがわかります。
 しかし、凹天の死因は、本当のところ分かっていないというのが正確なところです。おくやみ欄では、肺結核と記しているのですが。

 現在働いている方に、下川凹天の名前を出して尋ねてみてもよく分からないとのこと。あれからすでに30年半も年月が過ぎようとしています。

 この男こそが、宮古島生まれで、日本で初めて商業アニメーション映画を制作した人物なのです。

一番座からは、以上です。
裏座から、ふたたび宮国です。

生涯で何度も入退院を繰り返した凹天。自ら病弱だと何度も書き残しています。
昭和48年(1973年)の平均寿命は70.7歳。82歳で息を引き取ったのは、一病息災であり、大往生だったのかもしれません。

夢にまで見たふるさとが、日本復帰した翌年のことでした。

当時の宮古はどうだったかといえば、「この年、本土資本による土地の買い占め進む」と宮古島市史『みやこの歴史』(附編 96ページ)には書かれています。だいず、んびゃーいん。
第1回 「巨星、墜つ。」
不思議なことに、宮本病院のそばには浅間神社があり、どことなく凹天が晩年暮らした風景に似ています。

凹天が晩年暮らした千葉県野田市にある稲荷神社。この右手の空き地に、凹天「最後の棲家」がありました。
第1回 「巨星、墜つ。」
【茨城県内現地調査協力 村下悦子】

To be continued

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2017年12月最終金曜日の大予告から、順調に発刊が遅れている下川凹天のファンブックですが、ようやくどーにか最終コーナーを曲りました。あとはラストの直線を走りきるだけ?。でも、そこがゴールではありませんよ(笑)。


【2019/10/09 現在】



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