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2016年07月26日

第93回 「育英の父 下地玄信」

第93回 「育英の父 下地玄信」

ずるずると先月から続いていきた「植物園の石碑を紹介するシリーズ(仮)」も、(仮)がついたままいよいよ最終回です。ラストを飾るにふさわしい出落ち感を漂わせながらお届けすることにしましょう。
これまで幾度となくこのコーナーに名前だけは繰り返し登場してきた、下地玄信がいよいよ登場です。しかも、宮古島ではわずか二体しか確認されていない全身の銅像です(もうひとつは沖糖の竹野寛才氏。尚、実はこちらは単身像なのである意味、こちらが唯一ともいえます)。玄信の隣に少女を従え(涙を流しているわけではありません)、育英の父っぷりを存分に誇っています。
第93回 「育英の父 下地玄信」
まずは像に記されている下地玄信のプロフィールなどを紹介しておきましょう。
下地玄信氏は、明治二十七年六月、平良市東仲宗根に生れ、旧沖縄一中を経て、上海亜同文書院に入学、大正五年、首席で卒業。後、公認会計士として活躍。広く、内外に名を知られた。
夙(つと)に、郷土愛に燃え、青少年に関心を寄せ、郷里の人材育成に意をそゝぎ、育英資金として、多額の私財を投じてこれを助成し、又、宮古島の誇る、博愛精神の涵養に尽力されるなど、郷里に裨益(ひえき)するところが多かった。私たちはその功績を顕彰し、併せて後世永く記念するため、浄戝を募って、この銅像を建立したのである。

昭和四十八年十一月     
下地玄信顕彰期成会     

銅像製作者 大阪市 山中靖三  
台座施工者 柏原市(有)福田石材店
(句読点は編注)
なんかこれではちょっと物足りませんね。
少し資料から補足しながら玄信にいて紐解いてみたいと思います。
1894(明治27)年に平良間切東仲宗根村の生まれだそうです。生家の近くには大きなガジュマルがあるブカマサーという御獄があったと記されている資料があったので、生家は仲宗根スーパーの向かいにある外間御嶽(プカマウタキ)の近所だったのではないかと想像しました。この外間御嶽はその昔は大きな敷地の由緒ある御嶽だったようなのですが、北市場の建設や度重なる道路拡張(最終的に北市場もこれにより2007年に消失)で敷地は削りに削られ、今や路傍につつましく安置されているだけとなってしまいました。
玄信は幼少期から人並み外れて体が大きく、平良尋常高等小学校(現在の北小)頃には、西郷隆盛を彷彿させるということから、「今西郷」というあだ名で呼ばれていたといいます(訓導が玄信の事をそう呼んだらしい)。

那覇にある県立一中(現在の首里高校)へ進んだ玄信ですが、「ナークー(宮古)の田舎っペー」と那覇や首里の学友からバカにされ、見返してやろうと勉学に励み、県立一中始まって以来という抜群の成績を取ってみせたことで、田舎者とバカにしていた声は沈黙されられたそうです。また、同級生には稲村賢敷(教育者。宮古島庶民史を著す)や池村恵信(教育者。宮古の小中校の長などを歴任)がいたようです(どうやら池間行進曲の池間昌増も同級生らしいが、家庭の事情で高校は中退してる)。

学費のあてのなかった玄信は、中国の上海にある東亜同文書院大学へ、定員一名の難関を突破して県費留学生として、1913(大正2)年に入学します。この東亜同文書院大学は後の愛知大学(直接の系譜はないが、学生・教職員を受け入れる大学として新設された)に繋がっています。
1916(大正5)年に同大学を首席で卒業した玄信は、在学中から面識のあった中日実業公司(今でいう投資ファンドと思われる)の森格(元三井物産上海支店長。天津支店との記述もある。尚、wikiによると、日露戦争でバルチック艦隊の航跡をいち早く発見して海軍に打電。日本海海戦の勝利に民間から貢献とある)に見いだされ、東京の三井物産に入社(森の口利き)するも、すぐに三井三池炭鉱の炭鉱夫として出向させられます。
玄信はてっきり中国の森の元で、大陸を舞台に活躍できると思っていただけに、たいそう落胆したといいます。しかし、これは玄信に身を以て下積みを経験させる策だったそうで、9ヶ月間の炭鉱夫生活を忍耐で乗り越えた玄信は、三池炭鉱の所長に呼ばれ、白いワイシャツにネクタイを締める会計職へと移動となります。
1919(大正8)年。当時は国民皆兵として国民に兵役義務を課しており、このため玄信は都城の連隊へと入隊します。しかし、苦しかった炭鉱夫の仕事に比べると軍隊生活は、天国のようだったといます。ちなみにこの頃、三池の下宿先の娘、翠子を嫁にもらっています。

兵役を終えた玄信は、東京の三井物産へ戻ったものの、わずか5年ほど勤めただけで出奔してしまいます。そして旧知の森から100万円を融資してもらい、多良間の燐鉱石採掘と国頭の運天港を基地にした漁場開拓に乗り出しますが、2年も持たずにことごとく失敗してしまいます。そんな失意のまま帰京した玄信を待ち受けていたのは、追い打ちをかけるように発生した、1923(大正12)年の関東大震災でした。
しかし、この程度で挫ける玄信ではありません。これを機に大阪へ居を移して、三井物産時代の経験を活かし、会計士の道へ進むことになります。ある意味、ここから玄信の本領が発揮されたのではないかと感じます。

大阪で仕事を通して様々な人たちと繋がりを持ち、広く大きな人脈を作り上げてのし上がってゆきます。やがて政界や高級軍人などにも顔が効くようになります。1932(昭和7)年の満州国の建国や、1936(昭和11)年の二・二六事件などへも関与していたとのことですから、右肩上がりの成り上がりっぷりです。
そしていよいよ「んなま to んきゃーん」では良く知られている史実の登場です。1936(昭和11)年11月14日、日独文化研究所のトラウツ博士夫妻を京都から宮古島へ招き、宮古郡教育部会の主催で「ドイツ商船遭難救助建碑60周年式典」が大々的に行われます(この物語については「続ロベルトソン号の秘密」をご参考下さい)。外務省、日独協会、沖縄県などが後援し、日本側からは総理、内務、外務、文部、海軍の各大臣から、ドイツ側も外務と海軍大臣から祝辞が寄せられるなど、軍部主導の式典ではあるものの、玄信のフィクサーっぷりをひしひしと感じさせます。この時の宮古島は島をあげての大お祭り状態で、宮古最古の映像として残されているも知られています(トラウツコレクションのひとつ)。この式典を成功させた玄信にドイツ政府から功績が認められ、鉄十字勲章が贈られます(玄信と同じく式典開催に奔走した、愛知県岡崎出身の教育者で、名護を舞台にした「白い煙黒い煙」を著した稲垣国三郎と、式典当時は主催の宮古郡教育部会の会長で、後に台湾総督府地方理事官など台湾で重用された明知延佳は、赤十字名誉章を賜っていることから、差異なのか誤記なのかが気になります)。
この式典のあと、しばらくして日独防共協定が締結されます。また1940年には近衛文麿を中心とした大政翼賛会が設立され、玄信は理事に名を連ねます。まさに時代が激しく音を立てて動き出している瞬間といえます。

そして戦後―。
玄信は戦争協力者として公職から追放される措置が取られるも、1951(昭和26)年に指定が解除されるやいなや、日本公認会計士協会の結成に携わり、副会長兼近畿支部長を担います。
1959(昭和34)年、23年ぶりに沖縄・宮古へ帰郷して母校である北小(旧平良尋常高等小)や、首里高(旧県立一中)に図書を贈ります。以降、「下地玄信文庫」として宮古の各小中高校に図書を贈り続けます。また、「資源の乏しい沖縄県(宮古)発展の不可欠の要因は人材育成にあり」として、宮古に下地玄信育英会を設立します。

また、沖縄の本土復帰の年に重ねて、1972(昭和47)年11月3日に「ドイツ商船遭難救助建碑100周年」が催されます。この時もドイツ政府の代表としてウイルヘルム(Wilhem G. Grewe)駐日ドイツ特命全権大使夫妻や、日独文化協会理事長の三井高陽(三井物産の創始者の一族)夫妻らを招いて式典が開催されました。
この時、玄信は私財を投じてカママ嶺公園に博愛記念碑のレプリカを建立します(碑の制作は柏原市の石材店とあるので、玄信像の台座を施工した福田石材店(音声注意)ではないかと思われます。尚、このレプリカは碑の厚みを倍にして強度増しています)。そして史上三人目の平良名誉市民に叙せられています(平良町長を4期、平良市長を2期務めた石原雅太郎、元宮古民政府知事で、オリオンビールやアカマルソウの創業者、具志堅宗精に次ぐ。後に、額田雄治郎元岡山県津山市長と、玄信を叙した時の市長、真栄城徳松が加わります)。そして翌年、今回紹介しているこの銅像が建立されることになります。

玄信は1984(昭和59)年5月23日。89歳で亡くなります。彼が残した下地玄信育英会は、島から69名の奨学生を送り出しました(返済の必要のない奨学生)。しかし、2013(平成25)年の公益法人制度改革に伴い、従来のままの財団法人の継続が不可能となり、惜しまれつつ解散。2014(平成26)年に宮古島市へ基金の残余財産、4091万1544円を寄贈しました。この時、宮古島市は改めて、下地玄信育英基金を設置すると回答していますが、今のところその動きは聞こえて来ていません。早く次世代へつなげて欲しいものです。

下地玄信育英会
市に残余財産を委譲/下地玄信育英会(宮古毎日20160724)

【関連の碑】
第2回 「ドイツ皇帝博愛記念碑 レプリカ」
第7回 「博愛-公爵近衛文麿書-」
第8回 「独逸商船遭難の地-公爵近衛文麿書-」
第14回 「ドイツ皇帝博愛記念碑」




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