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2016年01月05日

第64回 「新城村総代上原戸那生誕地之碑」

第64回 「新城村総代上原戸那生誕地之碑」

年を跨いでの「人頭税にまつわるエトセトラ」シリーズ、いよいよ6回目です。先週の福里からナンコージ坂(城辺線の保良向けで、福里集落からから急なカーブと下り坂のある場所)を下って、おっぱい山の新城へ向かいます。今回登場するのは、上原戸那(うえはらとぅな・うえはらとな)という人物です。えっ、そんな人いましたけ?それ、誰ですか?と聞こえて来そうですが、新城村の総代で人頭税廃止に尽力した人物のひとりなのです。
こちらの石碑の位置は新城集落の中程にあり、裏山の水道タンクを目印に分け入れば、道路脇に見えて来ます。
第64回 「新城村総代上原戸那生誕地之碑」
上原戸那は、1865(慶応元)年5月5日、城辺の新城集落に生まれます。
人頭税廃止運動での役割、戸那の位置づけとしては、入江(嘉手苅)の川満亀吉が西の農民の総代であるのに対し、戸那は東の農民の総代として、請願団が上京した際の留守居役を務めました。

第64回 「新城村総代上原戸那生誕地之碑」たまたま見る機会のあった「新城(あらぐすく)考」(著作:ウヤキヤー上原久雄)という新城集落の考察本は、島全体をカバーするような普通の歴史書には書かれない庶民史が綴られています。ローカルだけどとても興味深い話が、いくつも掲載されているのですが、残念ながら部数限定の私家本なので、入手することは不可能に近い、とても口惜しい本なのです(ATALASではこうした市井に埋もれた幻の書籍を掘り起し、電子書籍にする取り組みも行いたいと考えています)。

この本によると、新城集落は豊見親の時代から士族に管理監督される平民だけの農村集落(村立ては1730年~50年頃)で、人頭税制になってからはあくせくと働き、納税品を作り続けるだけの日々に、教育や学問などはまったく考えられていなかった集落だったそうです。
それゆえ、新城出身で名を遺した偉人はいないと綴られていますが、新城出身で城辺村議や宮古郡会議員を務めた政治家・高里景親(1887~1961年)という人物を輩出していることを、余談として勝手に付記しておきます(公民館に顕彰碑があるのでいつか取り上げます)。

1879(明治12)年のサンシー事件以降、旧慣温存を望む士族の監視の目が厳しくなる中、福東の西里蒲、保良の平良真牛、そして新城の戸那の三人の総代は、人頭税廃止運動の構想を家族にも内緒で、村越の畑(現在の新城と吉野の間あたり)で話し合っていたといいます。
しかし、想いはあっても総代の三人は、「読めない」「書けない」「大和口が話せない」平民だったことから行き詰っていました。そこに西方の入江(嘉手苅)の総代、川満亀吉と、那覇から来た元製糖技師(この頃はすでに農民になっていたらしい)城間正安が、同じような企てを練っているらしいと知り、中村十作が島に来る前から入江湾のパチャガ崎で、5人は密談を交わしていたのだそうです。

あまりイメージのなかった戸那ですが、蒲や真牛に負けない熱意で取り組んでいた人物だったことが朧げながら判った気がしました。ちなみに、戸那の家号は「ウヤキヤー」(富貴家)と呼ばれており、「新城考」の上原久雄さんの屋号もウヤキヤーを名乗っていますので、恐らくはご子孫なのではないかと思われます(本をすべて読めたわけではなかったので)。
最後にこの「新城考」に、とても気になる一文が記されていたので、人頭税とは直接関係はありませんが、新城集落の歴史の一端として少し触れておきたいと思います。

請願団の活躍の結果、1903(明治36)年にようやく人頭税が廃止になってから2年後。1905年5月、あの「艦隊、見ユ」で有名な久松五勇士の物語に繋がる、バルチック艦隊を発見した人物の話が記載されていました。なんと、発見したのは割目(現在の吉野の旧称)の新城真津(松、旧姓を西原真津)で、平良の郡司まで報告に行ったと書かれているのです。
一般に知られている逸話としては、那覇から交易で宮古に向かう途中の奥浜牛が、海原のただなかでロシア艦隊に出逢ったことを漲水港に到着してすぐに派出所に報告したということ経緯ですから、そうなると話が大きく異なってきます(wikipediaにも採用されている)。
そこで気になったので「西原真津」を軽く検索してみると、そこには物凄く興味を引く物語が展開されているました。ただ、これは人頭税にも新城集落にも直接関係がない話なので、ここではリンク先だけ紹介しておきますので興味のある方はそちらをご覧ください。これが真実の物語なのだとしたら、本当に驚かされる結果だと拙考します。
「『新城松』ぬ話」(くまから・かまからvol.157)

大きく話題がそれてしまいましたが、サンシー事件、人頭税廃止、日露戦争といった明治後期の歴史的な出来事が、ごく短期間に起こり、それぞれに影響を与えてゆく様は、史料を読み解くだけでもとても興味深く、興奮と妄想が高まります。石碑(いし)に刻まれた想いを知ることから始めた、島の石碑を巡る旅「んなま to んきゃーん」を今年もよろしくお願いいたします。

【関連記事~人頭税にまつわるエトセトラ】
第3回 「川満亀吉顕彰碑」
第59回 「人頭税石碑」
第60回 「人頭税廃止運動ゆかりの地 城間正安住居跡」
第61回 「人頭税廃止運動ゆかりの地 パチャガ崎」
第62回 「顕彰碑(城辺)」
第63回 「福里村総代西里蒲生誕地之碑」




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この記事へのコメント
シロート研究家の中の人からの疑問符(笑)

「新城松ぬ話」によると、新城真津(松)こと、旧姓を西原真津は、1905(明治38)年5月22日、城辺町吉野海岸に友利金戸野と打ち網漁をしに出かけた時に、バルチック艦隊を発見したというのだ(新城考では郡司・橋口軍六に真津が報告にいたと書かれている)。

一方、一般的に聞伝されている奥浜牛の経緯は、1905(明治38)年5月23日に、宮古島東方海上を沖北上するバルチック艦隊と遭遇し、26日に午前10時頃に宮古島の漲水港(平良港)へ入港。すぐさま駐在所の警察官に事の次第を報告しています。

「坂の上の船」(文末リンク参照)を執筆した時も、素人考えとして言及しましたが、地球の丸さというものが水平線を生んでいることを考慮すべきと書いています。それを考えると真津はどこから艦隊を見たのかということが効きなります。

打ち網漁は磯(リーフ内)で行う漁法ですから、船を出して沖合いまで出ることは考えにくく(まして人頭税廃止直後だし)、人の高さで見える水平線までの距離は、ざっくり計算で4.5キロ先くらいになるので、出来るだけ隠密性を保ちたいロシア艦隊がそんな島の近くを航行するとは考えにくい。
では、漁を終えて登って来た、崖の上ならばどうだろうかと邪推。吉野海岸の崖上の標高は72メートルなので、

http://keisan.casio.jp/exec/system/1179464017

これで計算してみると、32.12キロ先まで見えるようになりましたが、宮古と本島は軽く270キロあります。一番近い久米島でも200キロちょっと。自分がもし艦隊運用をするのなら、そこまでギリギリの位置を通らなくてもよいはずなので、危険を避けて島影が完全に見えない大洋のど真ん中を航行すると思うのです。

もうひとつ、「水平線を越えてくる船は煙突(マスト)が先に見える」という逆を考慮して、バルチック艦隊の旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の煙突(黄色に塗られている)の喫水線からの高さを算出(全長121メートルから、写真高さを比率で計算)すると、およそ27.6メートル(旗のあるマストは約48メートル)だった。煙突だけならさらに20キロほど沖合いまで距離が広がる計算になるが(先端部の計算値で黒煙を噴き上げていればもう少し見えるか?)、しかし、合算したとしても、最大で島から50キロ少しである。さてはて、真実は如何に?。

坂の上の船(前篇)
http://akmiyako.ti-da.net/e2720688.html
坂の上の船(後編)
http://akmiyako.ti-da.net/e2720739.html

※謎を解きたいだけで、NOを突き付けているわけではありません。皆さんの叡智をほんの少し分けてください(笑)
Posted by D介D介 at 2016年01月05日 13:13
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