2018年05月29日
第4話 「島酒と望郷」
第3話 「路傍の燈り」
前回の掲載から約4ヶ月が経ち、私は今、八丈島に暮らしています。。。
‥えぇっ!?
という感じですが、土地との縁って、不思議とそういうものなんだな、と。
トントン拍子といいますか。。
ありがたいことです。
内地の東京から、ここ八丈町へ引っ越して来ました。
まぁ、ここも東京都なので、例えばゆうパックは都内料金です。
車は品川ナンバーです。
でも、昔は伊豆の管轄だったので、ここは富士箱根伊豆国立公園です。
複雑ですね。
島にフリージアが咲き、島中にいい香りが漂う頃、小さな八丈島空港に降り立ちました。
めずらしく、いい天気が続きました。
引っ越しの片付けはとても大変でした。
船便だった冷蔵庫は、10日以上も来ませんでした。
大きなスーパーでも、夜8時には閉まってしまいます。
夜の闇は濃く、星はいつも瞬いています。
今日は、島のお酒について。
八丈島は焼酎です。酒造所が、6つほどあります。
「島酒の碑」というのが護神山にあります。
町の真ん中にある小さな山の入口で、綺麗に玉石垣が積まれているところです。
山自体が信仰なのか、鳥居の向こうを登っても、特に何もありません。
火口の跡があって、それは教えられなければ気づかないほど、植物が生い茂っています。
さて、島酒の碑。
昔、八丈島では日本酒が飲まれていたのですが、しかし飢饉のときなどには、米は貴重なので、お酒が作れなくなるわけです。
八丈島は江戸時代、流人を受け入れて来た土地です。
大島、三宅島、八丈島、
と、罪が重い順番に遠くなるようです。
しかし、当時の流人は、知識や技術を運んでくるという役割をして、政治犯で流罪になった大名、豊臣秀吉の養子である宇喜多秀家は大変有名です。
秀家の流罪は八丈にとってはひとつの文化だったと思います。
また、近藤重蔵の息子、近藤富蔵は、八丈に暮らしながら、室町からの八丈の歴史を文字に起こし「八丈實記」を書き上げます。
そのように、流人が八丈島にもたらした技術や文化、知識は数多く、流人もいろいろで、島民にとってどのように受け止められていたのかは、興味深いところです。
さて、話はお酒に戻りますが、
酒が作れない、酒が飲めない、というのは、過酷な自然環境で労働し、生きる人間にとって、とても辛いものだと思います。
そこで、芋から酒を作る方法を、薩摩藩から流されて来た、丹宗庄右衛門が島民に伝授したわけです。
島では、穀類で酒を作ると飢饉を招くと、禁酒令が敷かれていましたから、島民の喜びようは、想像に難くありません。
ところで、私は島に移り住んでやっと10日が過ぎようという頃。
友人のお宅に呼んでもらい、釣った魚の刺身と煮付け、それから、島酒を水割りでいただきました。
そのときに、予想だにしていなかったことがおきました。
なんて言うか、まぁわかりやすい言葉でいえば、ホームシックです。
その水割りは、沖縄・宮古島の水割りと、奇跡のように似た味と香りがした。
水のようにするすると。狩俣の酒のように。
如何して。
理由は、説明できませんし、検証しようとも思いません。
心象、かも、しれないから。
人生の歴史が一巡り、何年振りかに飲んだ、島酒が体にぐっと沁みました。
恋しかったなぁ。。。宮古島が。
遠くまで来ちゃったなぁ、と言う。
距離的というよりも、時間的望郷の思いです。
島の焼酎、とても美味です。
いろいろ好き好きですが、やっぱり古酒はおいしいですね。
琥珀色の、まろやかな口あたりの、けれども、魅惑の香りの島酒、ぜひどこかでご賞味ください。
島の三原山側は至るところ、滝だらけですが、
八丈富士側の島の神社に湧き水があり、そこの水を汲んで、コーヒーを淹れると美味しいと聞きました。
今回はこのへんで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
【島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法】
第1話 「宮古の暮らし、八丈の暮らし」
第2話 「海までの距離感」
第3話 「路傍の燈り」
扇授 沙綾(せんじゅ さあや)
1976年 東京生まれ。
2003年から2011年まで、宮古島・狩俣に住む。
伊良部島へフェリーでの1年間の通勤を経て、東京へ。
現在、東京在住→2018年、八丈島へ。
12歳の息子と二人暮らし。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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