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2016年11月18日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十九話「石碑」が『博愛記念碑』に変わるとき」

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十九話「石碑」が『博愛記念碑』に変わるとき」

前回(第十八話)も述べたように、島の歴史書に記載されながらも、激動の時代の中で人々の意識から遠ざかり、注目されなくなっていた(と推測される)ドイツ皇帝からの記念碑。
これが、昭和初期の1930年代前半になると、一躍「博愛記念碑」として脚光を浴びるとともに、石碑建立の発端となった1873年のドイツ商船救助の出来事は「博愛美談」となって、全国的にも知られるようになりました。
この「石碑のリバイバル」は、今からちょうど80年前の11月に開催された「博愛記念碑60年祭」によってクライマックスを迎えるのですが、1930年代になってからのこうした動きの背景には、沖縄において、歴史や文化、アイデンティティーに関する意識の変化がゆっくりと、しかし確実に起こっていた、という「前座」があります。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十九話「石碑」が『博愛記念碑』に変わるとき」
【修身の教科書に掲載された「博愛」の物語】

そこで今回の「続ロベ」では、まず1910年代以降の本土・沖縄における社会の変化を見ることで、「博愛美談」を生み出し、広めようとする土壌が沖縄(宮古)においてどのように形成されていったのかを探ります。
その上で、1930年代の宮古における『顛末書』の編集を通して、また史実をもとにしたお話が修身の教科書に採用されることで、「博愛美談」が全国に広まっていく過程を追っていきます。

なおこのテーマを扱うに当たり、今回は歴史(歴史的な出来事)そのものの紹介に加えて、そもそもどうして歴史が必要なの?とか、どうして人は歴史を調べるようになったの?といった歴史哲学的な考察(歴史のあり方について考えること)もしていきます。ちょっと難しい話になりますが、なるべくわかりやすく説明したいと思いますので、よろしくお付き合いください。

まず「博愛美談」が作られて広まった大きな時代背景として、1910-20年代の「沖縄ルネッサンス」ともいうべき状況が指摘できる、と私は考えています。というのも、この時代は、(本土でも、沖縄でも)沖縄学が提唱され、また(これまで異質なもの、時には本土の文化より劣ったものと見られることもあった)沖縄文化の価値が見直され、特に本土と沖縄の文化の共通性に注目する研究が増えた時代であり、こうした状況下で、沖縄の人々が自分たちのアイデンティティーに目覚めていったと考えられるからです。

沖縄研究が活発化した背景のひとつには、近代化によって沖縄的なものが急速に失われるなかで、沖縄の文化を守ろうという動きがあったとも言われますが、他方でまたこの時代には、琉球処分以来、本土の人々から差別的な待遇を受けてきた沖縄の人々が、権利・待遇面での「本土並み」を希求し、本土の人々との自己同一化を図っていた(自分たちは本土の人と同じ歴史と文化を持った同等の存在だよ、と考えようとした)、という事情もあると考えられます。だからこそ、この時代の沖縄学では、本土と沖縄との歴史的・文化的な共通性が強調され、これを探る研究が活発になっていったのです。

この時代の沖縄研究全般において特に有名なのは、「沖縄学の父」と称される伊波普猷(いはふゆう, 1876-1947)で、彼は特に「おもろそうし」を手がかりに、琉球の歴史や言語、習俗などを実証的に研究していきました。代表的な著作『古琉球』(1911年)には、宮古における「八重山征伐のアヤゴ」に関する論考も収められています。
また本土でも、日本民俗学の父と称される柳田国男が、日本文化の古層が琉球にあると考えて沖縄研究を行っていました。伊波とも親交のあった柳田は、1920年12月から21年3月にかけて、奄美・沖縄・宮古・八重山を実際に訪れています。伊波も柳田も、「日琉同祖論」(日本人も琉球人も同じ祖先を持つとする説)を支持しましたが、そこには、沖縄の人々の置かれた厳しい状況を改善したいという思いもあったと言われていて、彼らの研究が、沖縄の人々の地位向上を目指す政治的な運動とも密接に関わっていたこともわかります。

この他にも、真境名安興(まじきなあんこう, 1875-1933)は『沖縄一千年史』(1923[大正12]年)によって沖縄史の通史的研究に大きく貢献していますし、文化面では、柳宗悦(やなぎむねよし、1889-1961)や濱田庄司(はまだしょうじ、1984-1978)らが、民衆による手工芸品の美を重視して1925(大正14)年に「民芸」という言葉を提唱し、その保存に関わるなかで、朝鮮や沖縄の芸術も高く評価し、両地域の文化財や美術工芸品の保護に努めています(特に濱田は、1920年代にイギリスから帰国後、沖縄に住んで壷屋焼を学んでいました)。

このように1920年代を通して、歴史と文化の両面において、沖縄は内外に誇れるものを持っているということが、沖縄と本土の双方の研究者によって唱えられ、それはまた沖縄における本土への同化欲求を満たすものでもあった、ということがわかると思います。こうした流れの延長線上に、宮古における「石碑のリバイバル」と「史実の美談化」があると言えそうです。

ということで、まずは前半のまとめ:
●1920年代には、本土でも沖縄でも「琉球と大和は同じルーツなんだ」という考えに基づいて、沖縄の歴史と文化についての研究が進んだ。沖縄の人々は、それによって、自分たちにもちゃんと歴史があるということ、また沖縄の文化は本土の文化に比べて劣ったものではないんだ、と考えるようになった。

以上の大きな流れを踏まえた上で、次に宮古島に目を向けてみましょう。宮古島でもやはり1920年代に、歴史や文化に対する意識の高まりがみられます。前回もご紹介した、宮古島初の本格的な通史である、慶世村恒任『宮古史伝』が1927(昭和2)年に出ているのも、先ほど述べた沖縄を取り巻く大きな流れと無関係ではないでしょう。
しかも『宮古史伝』をはじめとする島の郷土史の著作にも、「日本の一部」として沖縄(と宮古)位置付ける姿勢が貫かれている、という特徴が見られます。中世や近世の、実際には日本の朝廷とは直接の交流がなかったはずの時代の歴史記述にも、日本の元号(和暦)や天皇の名前が記されているのです。こうした記述からは、自分たちにも誇れる歴史が欲しい、という宮古の人々の願いとともに、天皇のもとでの帝国臣民の平等、という意識のもと、先島・沖縄への差別を解消したい、という意図があったことを読み取ることもできます。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十九話「石碑」が『博愛記念碑』に変わるとき」
【日本勧業銀行三十周年誌より(1927) クリックで拡大】

松岡益雄氏(編注*1)がドイツ皇帝の記念碑を「再発見」したのは1929(昭和4)年のことと言われていますが、つまりそれはちょうど、宮古の人々が自ら祖先の歴史に興味を持ち始めるとともに、自分たちは沖縄本島や本土の人々と同じ立場の国民(帝国臣民)なのだ、と意識し行動し始めた時代と重なります。正確には、松岡氏は記念碑を再発見したと言うより、島の人々が気にもしていなかった石碑が、実はとても大きな歴史的意義を持つものであること、言い換えれば史実の美談としての有用性を島民に知らしめた、と言えます。ですから、ロベルトソン号をめぐる一連の史実は、元々は宮古の歴史でありながら、松岡氏によるある種の「逆輸入」によって初めて、美談となる要素を備えた「意味のある」歴史として、認識されるようになった、というのが私の解釈です。

松岡氏が具体的にどのようにしてドイツ皇帝の石碑のことを沖縄の内外に知らしめたのか、という点は、今後さらに新聞記事などを分析することで明らかにしていく必要がありますが、ともかく拓本をもとに記念碑建立の経緯を知った松岡氏が沖縄県教育会に働きかけた結果、1873年のドイツ商船遭難、また1876年のドイツ皇帝の記念碑建立についての史実を再構成する作業が、1930年代前半に行われました。特に宮古郡教育部が中心となって、古文書の調査や当時を知る古老からの聞き取りが行われ、約60年前におきた二つの出来事の詳細が明らかになっていったのです。

このように、ドイツ皇帝の記念碑建立に至る一連の歴史が明らかになっていったまさにその頃、文部省は1933(昭和8)年、教科書改訂に際して、小学校の教科「修身」の教材に適した「知らせたい美しいはなし」を公募します。そこで宮古郡教育部会は、ドイツ商船の遭難救助・石碑の建立に至る一連の史実を、子ども向けの平易な文体にして「博愛」というタイトルを付けて応募します。
すると翌1934(昭和9)年4月、この教材は文部省によって一等に選出され、このこともまた全国的に脚光を浴びました。また、宮古郡教育部会が作成した文章は大幅に書き換えられたものの、この話は実際に1937(昭和12)年2月発行の『尋常小学修身書』巻四の「博愛」というタイトルの教材となり、全国の小学校で教えられるようになりました。太平洋戦争開戦直前の1941(昭和16)年、小学校が国民学校に改組された後も、この教材は「宮古島の人々」というタイトルで初等科の修身の教科書に引き続き収録されています。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十九話「石碑」が『博愛記念碑』に変わるとき」
【独逸国商船遭難救助並同国皇帝建碑顛末書より】

宮古群教育部会はこの他に、史実をまとめた冊子も発行しています。それが宮古群教育部会(編):『独逸国商船遭難救助並同国皇帝建碑顛末書』です。なおこの資料、現在は国立国会図書館のデジタルライブラリーに収められていて、誰でもネットで見ることができます(コチラ)。発行年は、江崎悌三の論文や国会図書館の書誌データによれば1935(昭和10)年となっていますが、教育部会長の立石尚純による序言は1933(昭和8)年11月1日となっていますので、執筆は1933年頃までに終わっていたものの、発行が遅れたのかもしれません。
ドイツ商船の遭難救助の経緯、またチクロープ号による石碑建立の経緯は、この資料にかなり詳しく載っていますので、現在でもなお、宮古島側から史実を読み解く際にはなくてはならない重要な資料となっています(但し、一部書き換えられて史実が歪められている可能性があり、他の資料との照合が必要な個所もあります)。

ということで、後半のまとめ:
●宮古の人々が歴史に目覚め、郷土史に自分たちのアイデンティティーの拠り所を求めている頃に、松岡氏による「石碑の再発見」があった。宮古の人々はこれを機に、ドイツ商船救助・記念碑建立の史実を、内外に誇れる美談として認識し、史実の再構成に努めた。さらに、ちょうど運よく、この史実が修身の教科書の教材に選ばれたことで、博愛美談は全国に広まることとなった。

とは言え、宮古の人々の歴史への目覚めによって生まれた「博愛美談」が普及した背景には、他にも宮古内外の多くの人々の関与(と尽力)があったことも見逃せません。そこ次回は、1936年の「博愛記念碑60周年祭」の立役者ともなった稲垣國三郎、下地玄信などの動向にも注目しながら、戦前の宮古島最大の式典とも言えるこの記念祭が挙行されるに至る経緯を、探っていこうと思います。


編注*1 松岡益雄:当時の日本勧業銀行那覇支店長。詳しくはコチラ
関連石碑 『んなま to んきゃーん』第14回 「ドイツ皇帝博愛記念碑」



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