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2016年12月16日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十話「大阪de宮古―式典の立役者、玄信と國三郎を訪ねて」

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十話「大阪de宮古―式典の立役者、玄信と國三郎を訪ねて」

前回、前々回の「続ロベ」では、大きな回り道をして、「博愛記念碑」建立後の宮古の近代化の歴史について、また1920年代を通して沖縄の歴史や文化への関心が本土でも沖縄でも高まっていく様子や、宮古でも島の歴史を知ろうとする気運が高まっていく過程を眺めてきました。こうした「沖縄ルネッサンス」、また「宮古ルネッサンス」とでもいうべき状況下の1929年に、奇しくも松岡益雄氏が石碑を「再発見」し、石碑の存在を世に広めたことで、宮古郡教育部会がドイツ商船救助に関する史実の収集、古老からの聞き取りに着手し、『顛末書』の発行、修身の教科書への応募(と当選)といった流れにつながった点も、おわかりいただけたかと思います。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十話「大阪de宮古―式典の立役者、玄信と國三郎を訪ねて」
今回は、1936(昭和11)年11月に宮古全島を挙げて開催された「獨逸皇帝博愛記念碑建立60年周年記念式典」(博愛記念碑60年祭)の立役者2人をクローズアップすることで、この式典が誰の発案で、いつ、どのようにして企画されたのか、という点を明らかにしたいと思います。ここで登場する重要な人物が2人います。宮古島出身の計理士(後に公認会計士*1)で、「育英の父」とも称される下地玄信(1894-1984)と、愛知県三河郡碧海郡(現在の安城市)出身の教育者、稲垣國三郎(1886-1967)です。
*1
計理士とは1927[昭和2]年施行の計理士法に基づいて会計に関する検査・鑑定・証明・計算などをすることを業とした者。1948[昭和23]年に公認会計士法が施行されると、計理士制度は廃止され、公認会計士制度に引き継がれた。


下地玄信については「んなまtoんきゃーん」の第93回「育英の父 下地玄信」に詳しいので、ここでは簡単な説明にとどめますが、宮古島で生まれ、平良尋常高等小学校を卒業後、沖縄県立一中を経て上海の東亜同文書院(1901年に上海に設立された、日本人のための高等教育機関。現在の愛知大学の前身とされる)を首席で卒業、三井物産での勤務などを経て、1936年当時は大阪で計理士を営んでいました。大阪に来る前は、三池炭鉱で下積みをしたり、沖縄本島で事業を興したものの失敗して多額の借金を背負ったり、彼の面倒を長年見てきた森格(もりかく)が関東大震災の影響で会社を廃業したり、果ては選挙違反で逮捕されたりと、毀誉褒貶( きよほうへん)の激しい人生を送っていますが、この辺りの詳細は亀川正東著『育英の父 下地玄信』に詳しいのでこちらもご参照ください。
いずれにしても下地は、大丸の社長の森三郎助に引き立てられたのを機に、大阪の財界、有名人、さらには軍部とのつながりも得て、社交界の仲間入りを果たします。その下地が、自らの「生まり島」である宮古島で大きな花火を上げようと立ち上げたのが、「獨逸皇帝感謝記念碑六十周年記念事業事務所」という名の式典準備事務所で、下地はこれを自らの計理士事務所内に設置し、大阪在住の沖縄関係者、京都の日独文化研究所のF.M.トラウツ博士、さらに東京の政府関係者にも協力を働きかけるなどして、宮古島で開催の行事としては空前の規模の式典を企画していったのです。
なお「下地玄信計理士事務所」は、大阪市中央区淡路町に1925(大正14)年に建設された「船場ビル」の405, 406号室に入っていたことが、ボン大学所蔵の「トラウツ・コレクション」に収められた手書きや葉書の住所からわかっていますが、何とこのビル(405号室、406号室も!)、太平洋戦争の戦禍にも遭わずに現存していて、登録有形文化財指定建物となっています。オフィスと住宅をあわせもち、装飾性のみならず機能性も備えたこのビルは、当時としては最先端の、ハイカラでモダンな建物であったことが伺えますが、また同時に、ここにオフィスを構えられるだけの実力を下地が持っていたこともわかります。今で言うならば「〇〇ヒルズ」にオフィスを構えている、という感じでしょうか。このように、彼は自らの職場を式典の準備事務所として提供し、東奔西走することになります。
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【ビルの4階、右上が405号室 船場ビルディング

次に、下地玄信らに「博愛記念碑」にまつわる記念行事の開催を持ちかけた人物である、稲垣國三郎を紹介します。彼の出身地は、以前は(私の出身地でもある)岡崎市ではないかと考えられていましたが、実際には愛知県三河郡碧海郡古井町(現在の安城市の一部)の出身であったことが、郷土史家の調査により判明しています。
彼の生い立ちなどは、はっきりしない部分も多く、学歴についても、ネット上には「岡崎師範卒」(20世紀日本人名事典)とか「愛知第一師範卒」(20世紀日本人名事典)など異なった記載がなされ、情報が錯綜しています(なお彼が学生時代を過ごしたと思われる1900年代中頃=明治30年代終わりから明治40年代はじめには、上記のどちらの名称の師範学校も存在しませんでした。実際にあったのは名古屋市の「愛知県第一師範学校」と岡崎市の「愛知県第二師範学校」で、いずれも愛知教育大学の前身校です)が、最新の調査では、稲垣の出身校が愛知県第二師範学校であったことが確認されています。ともあれ、いずれかの師範学校で学んだと思われるその後稲垣は、まず広島高等師範附属小学校の訓導として広島に赴任その後、1917(大正6)年1月から1922(大正11)年5月まで、沖縄県立師範学校の主事(つまり教員を教育する、教育大学の先生のような立場。この他、付属小学校の主事も兼務していました)として沖縄に赴任します。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十話「大阪de宮古―式典の立役者、玄信と國三郎を訪ねて」5年半近くにわたる沖縄滞在中に、稲垣は沖縄各地(宮古、八重山を含む)の習俗や文化などを細かく記録し、これを後に著書『琉球小話』にまとめています。紡績女工として本土に船出する娘を名護城の丘で見送った老夫婦の話をもとにした、有名な「白い煙と黒い煙」もここに収められています。また稲垣が初めて宮古島を訪れた時(1918年/大正7年)の印象も「宮古島の談片」という章で、博愛記念碑の詳細についても「謝恩の記念碑」で、久松五勇士についても「敵艦見ゆ」で、それぞれ綴られています。この他に稲垣は、沖縄県立師範学校の教員として、八重山出身の作曲家・教育者で「新安里屋ユンタ」の編曲でも有名な宮良長包(1883-1939)をはじめ、沖縄の教育界を担う教員の育成にも努めました。
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稲垣は、母の病気の都合もあり、1922年に沖縄を離れて茨城に転任、その後は岐阜にも赴任したようですが、『琉球小話』が刊行された1934(昭和9)年の時点では、大阪市東区(のち中央区)の愛日(あいじつ)小学校の校長になっていたことがわかります(なお愛日小学校は、江戸時代の商人・学者であった山片蟠桃(やまがたばんとう)の敷地跡に1872年に開校した由緒ある小学校でしたが、都心部の人口減少と開平小学校の新設に伴い、1990年3月をもって閉校しました。現在は商業施設「淀屋橋odona」が建っていますが、その隅には記念碑が建っています)。
稲垣は、本土に戻った後も沖縄との関係を大切にしていたようで、1930(昭和5)年に10日間、沖縄を再訪した他、大阪在住の沖縄県出身者(彼の教え子も含まれる)とも交流を深めていました。さらに彼は、1934(昭和9)年頃から、翌1935(昭和10)年が「久松五勇士」の20周年に当たることにちなんで顕彰運動を展開します。その結果、5月27日の海軍記念日には、海軍大臣から久松の漁師たちに表彰状と銀杯が贈られ、翌1936(昭和11)年の1月24日には、久松小学校において記念品贈呈の伝達式が行われ、稲垣はこれに同席して記念品を届けるために宮古を訪問しています。この、「久松五勇士」20周年に伴う顕彰事業が、この年の11月の「博愛記念碑」60周年の記念事業へとつながっていきます。
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京都のトラウツ博士に宛てた書簡によると、稲垣はこの1936年1月の宮古来訪時に、1936年が1876年の「博愛記念碑」建立から60周年に当たるので、記念式典等の事業を行ってはどうか、と宮古の教育界に呼びかけます。宮古島の行政及び教育界が稲垣のこの提案をどう受け止めたのか、この点は明らかではないものの、反響を示すような新聞記事などは見当たりません。むしろ彼の提案は、大阪の下地玄信のもとで実行に移されています。つまり稲垣は、大阪に帰ってからも、当地の沖縄関係者に同様の呼びかけをしたのでしょう。そして下地がこれに呼応し、彼が中心となって、在大阪の関係者を巻き込みながら、宮古島での式典を準備していくことになります。
このように、60周年の記念祭は、博愛記念碑のお膝元である平良町(や宮古支庁、沖縄県)などが主体になるのではなく、大阪の下地玄信や稲垣國三郎を中心に企画・立案され、実行に移されていきました。見方を変えれば、こうした経緯により、下地と東京=政府のパイプが活かされることになり、むしろ式典がより大掛かりになったとも言えそうです。
そんなわけで、今回は大阪の宮古関係者2人を取り上げました。次回は、具体的な企画・準備のプロセスと、ドイツ政府代表として宮古に赴いたトラウツ博士の動向などを詳しく見て行こうと思います。それではまた。


【改訂 20170107】
2016年12月16日の公開当時、稲垣國三郎が1935年12月に久松小学校で行われた式典に参加した、と記載しました(『平良市史』より)。またこの他に、稲垣が1936年1月にも宮古を訪問し、宮古の教育界に博愛60周年の行事開催を持ち掛けた旨の記載をしていました(ボン大学のトラウツ資料より)。
しかし、その後の調査で、久松小学校における「久松五勇士」の式典は実際には1月に開催されており、これに稲垣も参加していたらしいことが判明しました(『宮古教育誌』より)。各種の資料を総合的に検討した結果、どうやら『平良市史』の記載に誤りがあり、実際には式典は1936年1月に開催され、これに稲垣が参加した際に、博愛記念碑60周年の式典開催を提案した、と解釈するのが妥当と考えましたので、この部分の記述を訂正いたします。


【改訂2 20170217】
稲垣の出身地の表記に関して、愛知県安城市にお住いの上地恵英さんより、「三河郡」という郡名は存在せず、古井町は碧海郡であったとのご指摘を頂きましたので、訂正いたします(なお上地さんによれば、「三河郡」という誤った記載は『沖縄百年史(人物編)』に由来するのではないか、とのことです)。また同じく上地さんより、稲垣の出身校が愛知県第二師範学校である旨、ご教示いただきましたので、この部分の記述も訂正いたします。ご指摘に感謝申し上げます(ご本人の了解も得て改訂、追記しました)。



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