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2015年08月21日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第四話

『続・ロベルトソン号の秘密』 第四話

まずは個人的な宣伝で恐縮ですが、来る8月24日(月)の19時より、与那国町祖納の複合型公共施設にて開催される、与那国町教育委員会主催の文化講演会にて、「与那国・もう一つの交易拠点:ハンブルク市立民族学博物館所蔵資料を手がかりに」という題目で、与那国島とドイツのハンブルクとの関係についてのお話をさせていただくことになりました。20世紀初頭に与那国で集められた50点以上の生活用品が、ハンブルク市立民族学博物館に眠っており、これらについてのお話をする予定です。もしこの時期に八重山方面にお出かけの方がいらっしゃいましたら、お立ち寄りいただけたら幸いです(チラシはこちら)。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第四話
さて、今回は、ロベルトソン号の船長エドゥアルト・ヘルンスハイム(Eduard Hernsheim, 1847-1917)に関する研究の最新の状況をお伝えしたいと思います。また今回から数回に分けて、宮古島沖で遭難するまでのヘルンスハイムの生い立ちについて、詳しく紹介していきます。

先を越されてしまい、やや悔しい反面、同じテーマを共有する研究者が見つかって嬉しいのですが、ヘルンスハイムについてはこの数年間に研究が飛躍的に進みました。(オーストリアではなく)オーストラリアに在住のドイツ人研究者、ヤーコプ・アンダーハント(Jakob And
erhandt)先生という方が、エドゥアルト・ヘルンスハイムに関する史上初の本格的な実証研究を進め、3冊の著書にまとめられたためです。私はまだアンダーハント先生とは面識がないのですが、彼と面識のある琉大の先生から、よかったら紹介しますよ、と仰っていただいているので、早いうちにぜひ一度、お会いして情報交換ができたらと思っています。この先生、ヘルンスハイムに関する膨大な文献を読み込んで、彼の生涯を可能な限り克明に明らかにして下さったうえ、解読が困難な手書きの資料やヘルンスハイム自身の日記などもタイプ打ちして著書に掲載して下さったので、これらを今後、私の研究に活用させていただこうと思います。

そもそもドイツの歴史学の業界では、ドイツの植民地についての研究はあまり活発には行われて来なかったのですが、今世紀に入ったころからようやく、このテーマに目を向ける研究者が増えてきました。その過程で、「南洋植民地」と言われる太平洋島嶼部の旧ドイツ植民地についても、興味を持つ研究者が現れるようになる、ヘルンスハイムの名前も、業界関係者の間では「沖縄で遭難した後に太平洋で活躍(暗躍?)したドイツ人ビジネスマン」として徐々に「市民権」を得てきています。そしてついに、まさにヘルンスハイムそのものを対象とした画期的な研究が現れたということで、今後は、ロベルトソン号に関する新たな知見をドイツ側の研究成果から得られるものと期待されます。

アンダーハント先生の3冊の大著を読み進めるにはかなり時間がかかりそうですが、今回はとりあえず、ヘルンスハイムの前半生について、ヤーコプ・アンダーハント著『エドゥアルト・ヘルンスハイム・南洋・多額の金』(Jakob Anderhandt: Eduard Hernsheim, die Südsee und viel Geld, Monsenstein Und Vannerdat, Münster, 2012)をもとに紹介します。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第四話
エドゥアルトが生まれたのは、ドイツ中西部のマインツ(Mainz)という街です。活版印刷術を発明したことで有名なグーテンベルク(Johannes Gutenberg, 1400年前後~1468)が生まれた街として知られ、金融の街として有名なフランクフルト(Frankfurt)から西へ約20キロの場所にあります。父はルートヴィヒ・ヘルンスハイム(Ludwig Hernsheim)で、彼は両親(エドゥアルトの祖父母)の出身地であるアルツァイ(Alzey, マインツの南約20キロの小さな村)からこの地に出て来て弁護士を営んでいました。母はゾフィー(Sophie)で旧姓はメンデス(Mendes)、オランダの商家の娘だったそうで、二人は1842年に結婚しています。

エドゥアルトは、姉のロゼッテ(Rosette)とユリア(Julia)、兄のフランツ(Franz Hersnhe
im, 1845, 1909)に続く4人目の子として、1847年5月22日にマインツのシュタットハウス通り(Stadthausstraße)の自宅で生まれました。残念なことに、母ゾフィーは、エドゥアルトの出産がもとで亡くなっています。そのため父ルートヴィヒの妹ヨハンナ(Johanna)がマインツに来て、育児を引き受けました。父のルートヴィヒは、朝早くに家を出て仕事に向かい、夜はたびたびカジノに出かけて帰宅が遅くなるなど、家にいないことが多く、子育てには熱心ではなかったようです。

成長したエドゥアルトは、マインツからほど近い(南東に20キロ離れた)ダルムシュタット(D
armstadt)の工業専門学校で化学を学ぶようになります。兄のフランツが高校で落第を繰り返した末、大学に進学せず実業界に進んでいたことから、父ルートヴィヒはエドゥアルトが法曹の道を歩むことを望んでいたため、(将来法律家になる可能性を残すため、大学進学に必要な)ラテン語とギリシア語を学ぶことを進学の条件として課しました。

しかし1863年、ヘルンスハイムにとって人生の転機が訪れます。父のルートヴィヒが、手術の失敗により死亡してしまったのです。経済的な事情で勉学を続けることができなくなったエドゥアルト、その後いかにして宮古島に漂着するに至るのか、続きはまた来月。

参考文献
Jakob Anderhandt: Eduard Hernsheim, die Südsee und viel Geld, Band 1, Monsenstein Und Vannerdat, Münster, 2012.

<ドイツの地名と位置関係を判りやすくするための地図を用意しました。クリックで大きくなります>




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