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2017年03月21日

第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」

第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」

前回の白川浜に建つ「與那覇勢頭豊見親沖縄島發見出發之地」と対をなすと云っても過言ではない、與那覇世頭関連の石碑は、シリーズ初の那覇編です。建立されている場所は、新都心の高台から、泊の街へとくだる崖地に広がる、タカマサイ公園の中(住所的には上之屋1丁目)。別名を白川宮ともいい、華美に拝所化されています。
第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」
【左】近年追加で構築された東屋の下に並ぶ香炉群と再建された石碑。
【右】石碑の裏面。碑文の中央に乾隆三十二年の文字があり、復元された際の亀裂痕も見える。


ここを訪れたのは2015年の2月。すでにこの時、白川浜にあるはずの出帆の地の碑を探し求めて、捜索を開始しており、成果が上がらないまま所用で那覇にやって来たことを理由に、この碑を見に行きました。
所用を済ませ、荷物を持ったまま帰宮する飛行機の時間までをタイムリミットとする短い探索の旅に向かうべく、ゆいレールのおもろまち駅に降り立ちました。途中、メインプレイスなどに寄り道をしながら、おもろまちメディカルセンター裏手のタカマサイ公園まで新都心の近代的な街並みを歩く。やがて、たどり着いた公園は、新都心と泊の街を隔てる崖地にあるので、平面的な広がりはなく、園路として林の中にスロープが作られているという少し変わった作りになっていた。
灌木の林の中をスロープを伝って下りてゆくと、斜面に案内板と東屋のような拝所が現れました。それこれが今回の目的地、白川宮こと「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」が建立されている場所でした。
第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」
【左】メディカルセンター裏、崖上のタカマサイ公園の入口 【右】公園内の石碑のそばにある白川宮と刻まれた碑

碑を説明する案内板の解説はこんな感じ。
与那覇世頭豊見親逗留旧跡碑
 那覇市文化財指定史跡 指定年月日昭和51年4月16日
この碑はもと「タカマサイ」とよばれた当地にたてられたものである。1390年察度王の時に宮古の与那覇勢頭豊見親が基準入貢し泊御殿に住まわされた。ところが言葉が通じないので、その従者に琉語を学ばせた。従者の一人ら高真佐利屋という者がいて、夜毎、火立屋(のろし台)に登りはるかに故郷をのぞみ「あやぐ」をとなえていた。これにより付近を村民、その旧宅の地をら高真佐利屋原とよんだ。1767年、こに与那覇勢頭豊見親の子孫が長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め、子孫拝礼の場所として火を建立した。この碑は昔、泊の地が諸島を管轄してい頃の記念碑である。尚、現在の碑は、沖縄戦で破損して鋳物を1987年に復元したものである。
那覇市教育員会
補足を兼ねておこがましくも簡単に解説しておくと、宮古の覇権争いで目黒盛に逆転負けして敗走した与那覇原軍は、捲土重来を期して沖縄島へ(占いを元にして)出帆。
泊の地に滞留して語学の勉強(それだけ宮古とは沖縄は違っていた)に励み、中山朝貢(琉球も三国時代で琉球にはなっていない)を八重山の首領とともに行い、与那覇勢頭は宮古の首長に任じられます。

第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」覇権争いで目黒盛に敗れたんだから、宮古の実権を取れなかったのに、なぜか首長になっちゃうとか、与那覇勢頭の深謀遠慮が面白いです(尚、目黒盛に敗れて亡くなった佐多大人から、跡目を継いだ与那覇勢頭は、嫡子ではなく甥にあたるらしい)。
一見するとこれで島は権力の二重支配構造になったようにも感じます。しかし、一説には北(旧平良地区の中心部は元々目黒盛の根拠地だった)と、南(町村部の与那覇や与那浜の名は敗走軍が落ち伸びたともいう)に勢力圏が分断されていたとか、諸説ありますが、仲宗根豊見親の出現を考えると真っ向からの敵同士というにはちょっと違う気もするのです。
だって、目黒盛の五代裔孫にあたる空広(仲宗根豊見親の童名)は、与那覇勢頭の孫、大立大殿を養父として育ち、まるで南北朝の終焉とか公武合体のようなドラマっぷりを見せてくれますから、内政の目黒盛、外交の与那覇勢頭だったのではないかという研究もあるようです(なにしろ朝貢時に、すでに八重山と話をつけているなど、立ち回りの手腕も見事な気がする)。

第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」それはさておき、前回の記事の文末で、「與那覇勢頭豊見親沖縄島發見出發之地」の碑を建立した3年後、砂川一雄が沖縄戦で破損消失した「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」を探し出したという顛末にも触れておこうと思います。
1987(昭和62)年に碑が復元された時に発刊された、記念誌の中に「去る大戦によって破壊され、喪失していた“乾隆碑”は砂川一雄さんら神職の方々の執念によって探し出された」と回想録か記されていました。
ただ、この砂川一雄(1902-1965)についは、大阪の出身であることと、旧名が与那覇一門の名乗り頭である“恵”の字持つ、恵長という名前であったという程度しか記されておらず、人物像は謎に包まれています。
ちなみに最初の石碑の建立が、乾隆32年(1767年)であることから、この石碑は乾隆碑と呼ばれています(余談ついでに、乾隆はあの明和の大津波が起きた時の元号。津波は1771年、乾隆36年の3月10日に発生している)。

ちょっと面白かったのは、与那覇勢頭が出帆した時も、艮(うしとら)の方角に、我を救う国があると占いによって導かれ、中山へと向かっています(たぶん、既知の事実として西には大陸があり、東に沖縄島があることは、その後の行動からしても、知っていたのではないかと思われます)。
そして砂川一雄が碑を発見した時のエピソードには、「豊見親主を探せ、ユーナ、クバ、マーニの中、ガラス屋から50メートル先」というお告げを受け、三日間歩き回って井戸の中に石碑を見つけたのだという。なんとなくちょっと符号が似ていて面白い(落ちていた井戸というのが、はっきりしていないのだけど、現存しているのだろうか。那覇での捜索活動してくれる人はいないものか…)。

第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」見つかった碑は上部が戦火で破損していたものの、「碑は大東亜戦争によって破損したが時相を語るものとして敢えて補修せずに再建した・西暦1960年」(碑の碇石に埋められていた説明板)と、一度目の再建がなされました。
その後、1976(昭和51)年に那覇市の文化財指定を受け、公式に史跡として保護されることになり、与那覇勢頭の子孫である白川氏系統の人々の尽力により、1987(昭和62)年には碑は元の姿に復元されたのでした。
そして今も線香が絶えることのない白川宮。これほどまでに人を魅了している石碑は、なかなかお目にかかれません。

おわりに。
第127回 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」荷物を持ったまま帰宮前の短い探索の旅に立ち寄った「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」を後にして、崖地のタカマサイ公園を抜けて、泊側(上之屋1丁目)に降りる。公園のすぐ脇には崖を利用した墓がいくつか並んでおり、周辺が都市化されているのに、公園とは名ばかりで自然の勢いの強い森が残っている理由が判った気がしました。
道なりにふらふらと市街地を歩いて行き、春海ユース向かいの富士家の泊本店が、ど派手な外装になっていたことに驚きながら(数年ぶりに見たので)、崇元寺通り(又吉通り)へと出る。
その角にあったのは、多良川酒造の那覇営業所だったというのは、ちょっと出来すぎてるような気がした。那覇にいても宮古から逃れることが出来ないように見張られているのかもしれない(この後、崇元寺の交差点で美栄橋駅に行くか牧志駅に行くかを悩み、牧志駅を選んだ結果、駅前の公園に牧志御願があり、その脇にレンガ造りの石碑を見つけて、ちょっとニヤついてしまうモニュメントキュレーターであった)。




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