2016年07月05日
第90回 「花~見わたせば甘蔗のをばなの出そろひて雲海のごとく島をおほへり」
場当たり的に始めてしまった「植物園の石碑を紹介するシリーズ(仮)」は、月を跨いで三週目となりました。今回は「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」のお隣りに建つ歌碑です。
歌碑は五七五七七の三十一文字(みそひともじ)で構成された短歌。詠み人は宮国泰誠です。
見わたせば 甘蔗(きび)のをばなの 出そろひてこの句は1970(昭和45)年の歌会始において選歌(いわゆる入選)されたもので、この時のお題がBlogの表題にもなっている「花」でした。
雲海(うんかい)のごとく 島をおほへり(おおえり)
昭和45年歌会始 お題「花」
泰誠は1915(大正4)年10月26日、宮古郡平良村西里に生まれます。宮古中学(現・宮古高校の二期生)から、台北帝国大学へ進み、附属医学専門部(医学部ではなく、台北医学専門学校を統合した専門部らしい)を卒業します。その後、平良市内(現在のエコハウス付近)に宮古博愛医院を開業し、医師として歌人として活躍します。
歌人としての泰誠は、「雲海」「摩文仁」「あかね雲」などの歌集を発表。コスモス短歌会に所属し、日本歌人クラブ会員でもあったとのこと。また、「現代短歌に見る医師像」「健康に関する220のメモ」「名歌に見る日本の恋」などの著作があります。
また、歌会始で読まれた短歌は、「沖縄文学碑めぐり」(那覇出版社1986年刊行) によると、「1969年1月のある日、 郊外へ往診に出掛けた途中、 平良添道から西原一帯にさとうきびの尾花が出揃い柔らかく波打っている光景にひどく心をひかれ、 飛行機から見おろす雲海さながらの絶景、 柔らかくうす紫に果てしなく広がり続くさとうきび畑のその豊かな美しさに心を揺り動かされ、その感動を詠んだ」と記されているそうです。
しかとながら、碑が建立されている場所からはサトウキビ畑を見ることが出来ず、残念ながら歌から醸し出される情景を親しむことは出来ません。尚、碑の建立は1975(昭和50)年10月26日。宮国泰誠氏の歌碑を建立する会によってなされました。
宮国泰誠歌碑「花」 甘蔗(きび)の穂花光景詠む(宮古新報2014/03/22)
ここまでしれっと、さもな感じで書いていますが、実は詳しいプロフィールが掲載されているデータ(書籍や追悼記事など)がなく、断片的な情報から読み取っています。特に没年に関する詳細は皆無といえ、辛うじて見つけた「郷土文学 第76号」(1992年月)の特集「追悼 歌人故宮国泰誠氏を偲ぶ」というタイトルに期待を込め、図書館へ足を延ばします。しかし、本書の内容は泰誠を偲び追悼の歌を詠むばかりで、詳細に触れることありませんでした。
「郷土文学」は歌を通して親交のある平良好児が編集している季刊誌なので、泰誠をよく知る好児からすれば、泰誠を想い偲ぶ歌に重きを置く編集内容となったのでしょう。
しかし、すがる思いで手にした本なので、なにか手掛かりをつかむべく隅々まで眺め、特集の冒頭に「6月30日に百日忌を行った」という一文を見つけました。
その日付を参考にして、100日前を逆算し、1992年3月22日と予想。せっかく図書館にいるのだからと、その頃の新聞を倉庫から出してもらい(2010年代くらいしか書架には並んでない)、チェックすると宮古毎日も宮古新報も1992年3月24日付けの社会面に訃報の記事と告別式のお知らせを発見することが出来ました。
記事によると、泰誠は23日午前9時35分、平良市西里の自宅で肝臓癌のため亡くなったとありました。面白いかったのは毎日と新報の記事を見比べてみると、情報の主題に差があることでした。
新報は歌人としての活躍くぶりを中心に書くも、著作のタイトルのひとつを「名歌に見る日本の歌」と誤記(正しくは歌ではなく、恋)する安定ぶり。
毎日も毎日で、いきなり泰誠の生年である1915年を大正5年と書く凡ミスっぷりを露呈しますが、人となりに重点を置いて書かれており、初めて知る情報をふたつも見つけのでした。
ひとつは「昭和20年に宮古に駐屯していた五六二部隊軍医として入隊」という記述。
特殊な業種である医者が現地招聘されるのは、制海権も制空権もない宮古島としては無理からぬこと。特に末期となればなおのこと。ではありますが、ぶっちゃけ562部隊というナンバリングの部隊は宮古には存在しません。
恐らく陸軍第二十八師団(豊部隊)の歩兵連隊で、通称「豊五六二〇」の歩兵第三連隊、「豊五六二三」の歩兵第三十連隊、「豊五六二九」の歩兵第三十六連隊のいずれかではないかと思われます(これ以上はとりあえず時間不足になるので控える 艱難辛苦~沖縄・宮古島)。
ところが、土壇場になって新しいエピソードが発掘されました。なんと泰誠は軍医として部隊とともに多良間島に行っていたというのです。そしてしばらく終戦になったことを知らされずにいたらしいという逸話がでてきました(詳細を調査中)。
ふたつめは、「戦後昭和二十八に現在の地に博愛病院を開業」と、これまで見てきたプロフでは台北帝大を卒業後、平良市内で宮古博愛病院を開業と、わりとさらりと書かれているだけだった部分にも明らかにしてくれました。さすが、地元紙ならではです。
ようやくプロフが見えてきたところで、泰誠の活躍をもう少しさらっておくと、いくつかの島内の学校の校歌の作詞をしていました。
昭和29年2月1日 城辺中学校 校歌制定(作詞:宮国泰誠 作曲:豊見山恵永)
※尚、城辺中の作曲者、豊見山は「新宮古建設の歌」の作曲者でもある。
昭和29年10月2日 宮古農林高校 校歌制定(作詞:宮国泰誠 作曲:兼村寛俊)
※リンク先はpdfです。
昭和31年2月 久松小学校 創設50周年新校歌制定(作詩:宮国泰誠 作曲:友利明長)
その他のトピックスとしては、宮古高校の同窓会組織「南秀同窓会」があげられます。組織の財団法人化や第一期生の卒業50周年式典(これを契機に卒業50周年式典が継続化)など、逸話が掲載された冊子「橄欖」を発掘(pdf)しましたが、詳細については「橄欖」に譲りたいと思います。
ちなみに冊子「橄欖」は、とても難しい漢字が使われていますが、これは「がんらん」と読みそうで、日本語でオリーブのこと。これは宮古高校の校章(pdf)にオリーブの葉がデザインされていることに由来しているという、トリビアのトリビアのようなネタも付け加えておきます(デザインされている理由は聖書が元ネタなのは云うに及ばず)。
小さな島でありながら、なにげに掘ってみるとザクザク気になる面白い逸話が、次から次へと湧いて出て来るのが宮古の偉人たち。本当に面白すぎます。
最後にもうひとつだけ、エピソードを紹介しておきます。
ネットで「宮国泰誠」の名前を深々と検索し続け、耳かきひとすくいほどの小さなネタを拾いました。それはあるリストに掲載されている書簡の存在を示す一行で、リストから詳細について一切不明なのですが、その相手が山之口獏(詩人 1903-1963)だったので固唾を呑みました。
「稿本・山之口貘書誌(散文/その他―後編)」 (松下博文 筑紫女学園大学)
この論文のリストにたった一行だけ、
「山之口貘宛宮国泰誠書簡」 1958年11月27日(書簡後付け)
と記述があり、脚注として、
『宮国泰誠は「宮古博愛医院」医師。手紙は「宮古博愛医院」専用原稿用紙を使用。』
と付記されていだけなのです。
消印の日付から、山之口貘の晩年であることが判ります。
調べてみると、山之口は1958(昭和33年)7月に、第三詩集『定本山之口貘詩集』を発表して、同年11月6日に34年ぶりに沖縄へと帰るのです。この時、山之口は首里高校で帰郷記念講演(座談会)を行っています。もしかしたら泰誠は、この講演会に参加していたのではないだろうかという妄想を暴発させたい。
消印が講演会の月なのは偶然なのでしょうか。泰誠は山之口からなにかを感じ、なにかを告げたくて筆を取ったのではないだろうかと。しかし、山之口は翌1959(昭和34)年まで在沖しており、1月6日に東京の自宅に帰ります(そうか、泰誠がどこに送ったかもファクターになるのか)。
そして山之口は1963年3月に入院、同年7月19日に帰らぬ人となります(享年59歳)。
ね、書簡の中身が気になってきませんか?
詩人・山之口貘の肉声が語るもの(琉球朝日放送 2014/07/15)
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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