てぃーだブログ › ATALAS Blog › んなま to んきゃーん › 第67回 「プロヴィデンス号来航200年記念碑」

2016年01月26日

第67回 「プロヴィデンス号来航200年記念碑」

第67回 「プロヴィデンス号来航200年記念碑」

今回の島の石碑を旅をする企画「んなま to んきゃーん」は、池間島にある「プロヴィデンス号来航200年記念碑」です。プロヴィデンス号はドイツ村の沖合で難破したロベルトソン号(1873年)よりも、ずっと前の1797年。18世紀末に八重干瀬で座礁沈没したイギリスの軍艦(帆船)です。
第67回 「プロヴィデンス号来航200年記念碑」
実際のプロヴィデンス号にはフィギュアヘッド(船首像)はなかったような感じですが、記念碑にはフィギアヘッドとしては珍しい男性の上半身を模した船首像が舳先が描かれ、その両側でクイチャーを踊る女性が配された、友好的なイメージのモニュメントが描かれています。
石碑の設置場所は池間漁港の岸壁に面した通り沿いにある、ひと目をひく球状ドームの隣に建立されており、プロヴィデンス号の来航200年を記念して、1997(平成9)建てられました。

碑文

英国の帆走スループ型軍艦「プロヴィデンス号」は貿易基地があったマカオから出帆し、蝦夷(北海道)の噴火湾へ公開途中、1797年5月17日、宮古・池間島北方の八重干瀬で坐礁し沈没した。
船長W・R・ブロートン中佐以下乗組員全員は伴走用スクーナー型帆船に移乗して脱出、宮古漲水泊に碇泊して蔵元(旧藩時代の役所)に滞在した後、5月23日に出帆した。
帰国したブロートン船長は。1807年「北太平洋探検航海記」を著し「もてなしをしても代償を求めない民」と、宮古(琉球)のことを広くヨーロッパに紹介した。
いま、200の時空を超えて、その出会いとロマンが幻の大陸・八重干瀬とともに浮上する。
新しい出会いの始まりとともに・・・。

1997(平成9)年5月17日建立
プロヴィデンス号来航200年記念祭実行委員会
プロヴィデンス号を語る会

このプロヴィデンス号は1791年に、パンの木の運搬船として就航しました。その後、1794年にスループ型軍艦への改修がなされ、イギリス海軍の探検船として北太平洋の調査を目的に、ウィリアム・ロバート・ブロートンが艦長に就任し、1795年に出帆します。
極東アジアを訪れる前は、キリバスのカロリン島(ミクロネシアのものとは別)を再発見したり、バンクーバー遠征隊の支援にバンクーバー島(カナダ)を訪れています。その後、太平洋を横断して黄海(中国)へと入り、朝鮮半島の沿岸を航海(イギリス人としては初)。日本海からオホーツク海を経て樺太(サハリン)、北海道沿岸、千島列島を測量調査するなど、精力的に太平洋を巡ります。

1796年8月、北海道の内浦湾(噴火湾)沿岸の洞爺湖町虻田を訪れ、日本への初上陸を果たし、翌9月には室蘭へ寄港して船体の修理を行います。修理を終えたプロヴィデンス号は室蘭を出港して千島列島へと向かい、新知島(シンシル島。千島列島の中央付近の火山島)まで到達しますが、厳しい気候のため探検の継続を断念し、冬を越すために一旦、マカオまで南下します(12月)。

再び、北太平洋への調査に向かうため、スクーナープリンス・ウイリアム・ヘンリー号を購入し、2隻体制でマカオを出航しますが、1797年5月16日にプロヴィデンス号が池間島沖の八重干瀬で座礁・沈没してしまいます。
この時、8日間(5月17日~24日)に渡り、宮古の人々から手厚い援助を受けたことが、今回の石碑の骨子となっています。そして残った僚船のスクーナー号に乗り、一度はマカオへと戻りますが、ブロートン艦長は探検航海を再開する決断をします。

スクーナー号でマカオを再び出帆し、那覇港に寄った後、太平洋岸を北上(房総沖で江戸湾を確認。仙台にも寄港)します。再び室蘭へ寄港した後、箱館(函館)を訪問しますが松前藩には歓迎されず(室蘭でも松前藩の人に逢ってはいる)、そのまま津軽海峡を通って日本海へ抜けて北上するも、間宮海峡(ユーラシアと樺太の間の海峡)まで到達することができず、探検航海を断念して中国大陸の沿岸を南下し、マカオ、マラッカ海峡を経由して、1798年5月にセイロン島(スリランカ)に到着します。

ブロートン艦長はここで船を降りてしまいますが、スクーナー号はインド洋を南下し、喜望峰を廻って1799年2月にイギリスへ帰還します。
尚、ブロートン艦長は1807年にプロヴィデンス号の探検の記録を「北太平洋探検航海記」として出版し、宮古島の人々に手厚く助けられた感謝の想いを記し、イギリス人の対日観に影響を与えたとの云われています。

駆け足でブロヴィデンス号とプロートン艦長の足跡を辿ってみました。尚、プロヴィデンス号の諸元は、帆柱が3本あり、全長32.87メートル、全幅8.86メートル、重量406トンあったとされ、武装は4ポンド砲10門、1/2ポンド旋回砲14門が装備されていた模様。ちなみに琉球紙によく出てくる進貢船も30~35メートルほどだったようなので、大きさとしては驚くほどのサイズではなかったようです。

最後にこの石碑を建立したデータが碑の裏側にありましたので、備忘録として書いておきたいと思います。
プロヴィデンス号来航200年記念碑
     主催 プロヴィデンス号来航200年記念祭実行委員会
         プロヴィデンス号を語る会
     協力 沖縄ライオンズクラブ
         糸満ライオンズクラブ
         那覇南ライオンズクラブ
         八重山ライオンズクラブ
         宮古ライオンズクラブ
         (有)大善建設
     デザイン 与那覇淳
     碑文 宮川耕次
     英文 新崎寿浩
     制作 下地石材店

大航海時代の末期、近世はこうした外国船がいくつも宮古海域に出没しているので、有名無名も含めこの手の話は枚挙はいとまがありません。

【参考資料】
プロビデンス号物語/宮古島キッズネット
プロビデンス号について/室蘭市
ブロートン艦長/スタンプ・メイツ




同じカテゴリー(んなま to んきゃーん)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。