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2015年05月19日

第31回 「沖縄放送協会 宮古放送局」

第31回 「沖縄放送協会 宮古放送局」

平良編(5月期)も後半に入りました。ちょっと毛色の変わったモノを紹介してみたいと思います。
「沖縄放送協会 宮古放送局」。略称を「OHK」と呼び、アメリカの施政権下にあった沖縄に設立された公共放送で、現在の日本放送協会NHK沖縄放送局にあたる組織です。
こちらの碑-いしぶみ-は記念碑や顕彰碑と云う訳ではなく、かつてのOHK宮古放送局の所在地に当時から建っていたものです。場所は宮古島市総合体育館の裏山、合併前は宮古広域圏事務組合があったところで、現在は福祉施設になっていますが、奥には今もNHKの電波塔がそびえています。
第31回 「沖縄放送協会 宮古放送局」
冒頭でさらりとNHKの前身だと、さらっと語ってしまいましたが歴史を紐解いてみると、意外と奥が深くて興味深いことが判りましたので、例によってお勉強がてら綴ってみようと思います。

1942(昭和17)年3月19日、日本放送協会が那覇市に沖縄放送局を開設。戦前にまずNHKが那覇市に開局していました。しかし、1945(昭和20)年3月23日の那覇空襲でNHK沖縄放送局は機能停止に陥り、3日後には正式に閉鎖され27年3ヶ月後まで沖縄の地からNHKは失われます。
この間、NHKは那覇通信局(1961年)など支局を設置しますが、あくまでも海外支局扱い。NHKの番組は先行して開局していた、民放の琉球放送(RBC)と沖縄テレビ放送(OTV)でスポンサーをつけて放送していました。けど、これは本島の話であり、先島にはテレビは届いていませんでした。
1965(昭和40)年に先島テレビジョン放送局置局調査が開始され、1967(昭和42)年10月2日、沖縄放送協会(OHK)が設置され、初代会長に川平朝清(ジョン・カビラ、川平慈英の父)が就任します。
遂に同年12月22日に、OHK宮古放送局がテレビ放送開始。翌23日にはOHK八重山放送局テレビ放送を開始します。そうなのです。沖縄初の公共放送であるOHKは、宮古からスタートするのです。

先島に遅れると一年、1968(昭和43)年12月22日にようやくOHK中央放送局テレビ放送として本島での放送が始まります(RBCやOTVで放送されていた番組はOHKに移行)。
実はこの時、まだ本島と宮古の間の海底ケーブルが設置されておらず、同じOHKでありながら本島と宮古は別物(中継局ではなく親局なので、放送局としての体制が取られていた)でした。
1972(昭和47)年5月15日。沖縄が本土復帰したことでOHKはNHKに統合し、その役目を終えますが、宮古局は「日本放送協会沖縄宮古テレビジョン放送局」として先島に君臨し続けます。
1976(昭和51)年12月22日、ようやく本島と宮古を結ぶ海底ケーブル回線が開通し(1975年に暫定開通)、本島と先島で完全同一のテレビ放送ができるようになり、NHK宮古放送局は現地事務所へと格下げとなりました。

碑の背面には「着工 昭和41年10月 完成 昭和42年11月」と書かれており、施設が実際の放送開始よりも早くから作られていましてた。これは復帰を念頭に置いた措置で日本の郵政省の肝いりで作られ、OHKが琉球政府の元で開局し、復帰を以てNHKに合流するという流れが出来ていたようです。

尚、一周道路(県道83号線)の宮古島市新斎場近くにあるNTT西日本山川揚陸室から、本島宮古間の海底ケーブルが地上に出現しています(コチラ)。

【資料】
沖縄放送協会(wikipedia)
「送信塔見て歩き」
「OHK八重山」(Google Street View 現・石垣市パパイヤ研究所)
※石碑の文字が削り取られて消されているようにも見えます。


連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定  [モリヤダイスケ]



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