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2017年12月19日

第165回 「報恩之碑」

第165回 「報恩之碑」

島の石碑を巡る旅、多良間島シリーズの3回目です。先週の高田海岸の異国船ファン・ポッセ号の遭難の地に続いてご紹介するのは、ファン・ポッセから2年後の1857年に南部藩宮古(巌手縣)の善宝丸が、多良間島に漂着した事件にまつわる石碑「報恩之碑」です。こちらの石碑は多良間島の南端にある多良間漁港の東側、高穴海岸に面した「宮古の森」の中に建立されています。
第165回 「報恩之碑」
石碑がある「宮古の森」の“宮古”とは、いわずもがな岩手県宮古市の宮古のことです。気候がまるで違うので、ここの森に岩手の植生が植わっている訳ではありませんが、そのように名付けられています。そして善宝丸が流れ着いたといわれている高穴海岸の側に石碑が建立されています。
安政六年(西暦一八五九)一月南部宮古の帆船善宝丸。江戸交易の帰途、暴風雨に遭う。水夫七名七十余日生死の間をさまよいこの地に漂着。救いを求む。多良間島民よく奔走してこれを庇護し、もって全員恙なく帰郷するを得たり、以来百十余年宮古市民深くこれを謝し胸に刻む。ここに語り継ぐべき有縁を記し友愛を込めて一碑を建て、永久に記念するものなり
昭和五十一年十一月吉日
岩手県宮古市長 菊地良三
以上が、報恩之碑に記されている全文になります。
ややざっくりとした情報で構成されていますので、ネタ的にもう少し掘っておこうとあれこれ調べてみると、石碑は昭和51(1976)年に建立されていますが、逸話自体は昭和49(1974)年に岩手県宮古市の郷土史研究家の手で、長根寺の古文書の中からエピソードが発見されたことが発端となっているようです。
第165回 「報恩之碑」第165回 「報恩之碑」
※多良間村が石碑のそばに建てた、報恩之碑の案内板には安政五年と書かれている(誤記)。

各資料から引き出した情報を基に、善宝丸事件の全貌を再構成してみました。

安政六(1859)年8月末、福川屋栄作(船主)持舟船の商船・善宝丸にて、藤原善兵衛(下町善兵衛、小野寺善兵衛という表記もありますが、明治になるまで苗字を名乗るとはなかったので住んでいる土地の名前などを付けて呼んでいると考えられる)船長(船頭)以下7名(以下6名の記述があるが、記録によると善兵衛、与十郎、伊勢松、多助、福治郎、亀吉、勘兵衛の7名である)は、岩手県宮古市を出帆しました。

同年9月28日に江戸に着き、所要を終えて神奈川県浦賀港を11月10日に出港し、千葉県銚子沖までは順調な航海であった。ところが翌11日は南西の大風に変わり、激しい時化に見舞われてやむなく帆柱を切り捨て(荒海の中で転覆する恐れを軽減するため、帆柱を自ら切断することはこの時代における遭難時のライフハック)、船体の破損により浸水箇所を応急処置をしながら、波まかせ風まかせに彷徨い続けました。一行は妙見様(みょうけんさま≒妙見菩薩。北辰≒北極星または北斗七星の神格化したもの。除災招福のご利益がある)に心願を立て、朝晩に御題目(真言≒オン ソチリシュタ ソワカ)を皆で唱え祈ったといいます。

14日になってようやく嵐もおさまり凪になるも、現在位置も方角すら判らず、なすすべもなく海原を漂流するしかありませんでした。
船に積んであった水も25日目には尽きてしまうも、神仏へ祈願のおかげか尽きかけると雨が降り、天水を集めてしのぐこと三度。水は不自由なく使うことが出来ました。食料は浦賀を出る時に積んだ、5斗入り3俵の米(1斗は10升)と、商売用に積んであったサツマイモ250俵を食べて日々をしのいでいた(末期は魚も釣っていたとの記述もある)。

12月20日頃、故郷ならば土用の丑の頃のような暖気を感じる海に、日本から遠く唐のあたりを漂流しているのではないかと予想。12月23日午後2時頃、高い山の島が見えるも日本らしからぬことから落胆(高い山の島は台湾であろうか?)。食料がとぼしくなりなりはじめた(そのままだと3月には食べ尽す勘定だった)1月23日四ツ時(10時か22時)頃から東南の風が強まり、やがて夜七ツ時(24日午前4時頃)からは激しい風雨の大嵐となり、海原に浮かんだ木の葉のように波に翻弄されます。
彼らは必死に船にしがみつき、一心に妙見様を念じ続けているうちに、24日の深夜、どこともわからない島の岩礁へ善宝丸は乗りあげて大破します。実に75日目(1859年1月24日に漂着。76日と云う記述も見られるが、これは夜が明けたからということか?)ぶりの陸地でした。一行は夜が明けるのを待って島へと上陸します。それが多良間島の高穴海岸だったのでした。

善兵衛ら一行は多良間の島の人びとから手厚いもてなしをなされます。食料や衣装の提供を受け、体力の回復をはかり、53日間にわたって多良間島に滞在しました。
3月17日、島の船(貢進船などではない模様)でまず、宮古島へ(出立時間は不明ですが、同日の午後2時に着いたとあるので、宮古島までは数時間の航海らしい)。宮古島からは特別に仕立てた船(こちらは貢進船っぽい気がします)で、3月26日に宮古を発ち、29日に伊平屋島へいったん着き(風の影響であったようです)、その後、那覇へと入り琉球王府で漂流の経緯などを報告(聴取?)し、三ヶ月半ほど滞在(3月30日~6月16日)。薩摩(鹿児島)~豊前小倉(福岡県北九州市)~大阪~江戸を経て、1年余年(10月8日)ぶりに岩手県宮古市へと全員が帰郷を果たします。

この善宝丸が縁となって宮古郡多良間村と岩手県宮古市は姉妹都市を結び、現在ではさまざまな交流事業を通して繋がりを持っています。報恩之碑の建立時は、姉妹都市の締結前ですが、遥々、宮古市の市長ら一行が多良間島を訪れており、この直後に結ばれていることを思うと、この時のトップ会談で決まったのかもしれません。
第165回 「報恩之碑」
そして時は流れ、ここからは手前味噌の自分のターンとなります。
2015年2月。ちょうど伊良部大橋が開通してすぐのこと。所要(伊良部大橋開通感謝の集い)で橋渡ってを伊良部の公民館(旧伊良部町中央公民館)へ。ここのロビーには島民が持ち寄ったものなのか、古い民具や鳥や動物の剥製などが古びたショーケースに飾られているのですが、その一番隅っこに劣化して日に焼けて黄ばんだ綴りがあることに気づいて、硝子越しに表紙の文面を読み驚かされました(ついでに何故の多良間関連の書物が伊良部にあるのかという疑問符も生れた。尚、正確にはもう少し前にこの綴りは見つけていましたが、書面の記憶が不鮮明だった)。
「奥州人(岩手県宮古市) 多良間島漂流記(写) 宮古市花坂蔵之助氏」
と、そこには書かれていました(直後は達筆で完全には読み切れなかった)。

そこで岩手県宮古市の知人(姉妹都市が縁で宮古島のトライアスロンに参加し、その後、宮古島に住んでいたこともある方)に、この話を投げかけると、早速、調べてくれました。
花坂蔵之助(はなさか・くらのすけ)氏はどうやら地元の郷土史の大家のようで、長根寺の古文書を調査した際に善宝丸の記述を発見した人物でもあるようです。宮古市の図書館での調査の結果は、また、興味深いもので善宝丸の記録は3つ残っているということでした。

(1)「宮古通り漂流人一件」 (県立図書館蔵)
船頭・水夫たちが帰郷後、南部藩の御徒目付に申し述べた調書のようなもの。

(2)「多良間島漂流控(仮称)」 (宮古市・長根寺蔵)
船頭の善兵衛が帰郷後に漂流の始終を書いて、長根寺に納めたもの。表紙が失われ「多良間島私共御取扱いな付」ての書き出しで末尾も欠落しているため、資料名は仮称となっている。

(3)「宮古通之者七人琉球江漂流一件」 (県立図書館蔵)
最初の「宮古通り漂流人一件」と内容は変わらない。

漂流“記”(写)と、タイトルが少し変わっていますが、二番目の「多良間島漂流控(仮称)」がどうやら、伊良部で見つけた綴りの元であると思われます。

そして花坂蔵之助氏の手によるものとしては、「多良間島漂流控 現代語訳(琉球新報 1976年11月25日~12月1日計5回掲載)というものがあり、当時の連載をを読むに、臨場感のある漂流記(の報告)で、多良間、宮古をはじめとした当時の琉球の様子をかなり仔細に報告しています。この伊良部にある綴りの内容は、おそらく新聞連載された「多良間島漂流控」の読み下しではないかと思われます。
「多良間村史第二巻資料編1巻王国時代の記録」に原典と花坂蔵之助氏の手による読み下し文が掲載されています(過去の琉球新報今月末で閉館するを図書館北分館で見て来たけれど、未だマイクロ化とかもされていないので、綴じ代に喰われて読めない部分もあったので、村史をあたることをお勧めします)。
第165回 「報恩之碑」
この多良間村史。善宝丸関連についてはかなり充実しており、先の「多良間島漂流控」の他、「宮古通り漂流人一件」も掲載されている(読み下しはなし)。そして注目なのはこの善宝丸の事件は、琉球側の記録も充実していることが、村史によって知ることが出来ました。
「球陽(附巻四、尚泰十二年)」、「宮古島在番記」にも記録があるが、東京大学法学部に所蔵されている「琉球評定所記録」の中の一冊に、「奥州人七人宮古島へ漂着難破那覇へ送来候付界抱日記」というものも掲載されている。この史料は多良間に漂着した善宝丸一行の聞き取りと、宮古島在番や王府役人の対応と、それに伴う経費などが事細かに記録されている(かなり至れり尽くせりで、高待遇を受けているのが判ります)。

いつものように石碑の話を書き出してから、善宝丸の逸話はとてつもない大物であることに気づき、あわててあれこれと史料を読み漁ったものの、細かなところまではたどりつけませんでしたが、非常に興味深いネタなのでもう少し個人的に掘っておこうと思います。
嗚呼、スラスラとはわないまでも、漢文が滞りなく読めるくらいちゃんと勉強しておけばよかった(理系)。

【参考資料】
多良間の友を迎える歌
「多良間村史第二巻資料編1巻王国時代の記録」 (1986年)
「平良市史 第三巻 資料編1前近代」 (1981年)
「琉球新報 多良間島漂流控 現代語訳」 (1976年11月25日~12月1日掲載)




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