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2017年10月17日

第157回 「友利一族發祥之地」

第157回 「友利一族發祥之地」

先週の「清水御神(福北・西嶺原)」で、大いなるプロローグとかなり思わせぶりな妄言で煽ってみましたので、井戸にまつわる石碑シリーズはちょっとおやすみして、今回は全国7000名(全国苗字ランキング2164位)友利姓の皆さんに注目していただきたい石碑をご紹介してみたいと思います。
第157回 「友利一族發祥之地」
今回も出落ち感が満載ですが、正真正銘、文字通りの「友利一族發祥之地」という石碑です。
はい、驚きですね~。びっくりですね~。だって、この石碑は福北は西嶺原の集落の片隅にひっそりとあるのですから。そうなのです。字・友利にあるわけではないのです。
もっとも、石碑を少し読み解いてみると、どうやら数多ある友利家の一筋の血脈のとある一族の家系を遡った、祖先を崇拝のために建立した石碑と捉えるのが正解のようです。
このとても興味深い石碑の存在をたまたま知り(「城辺町の文化財マップ」城辺町教育委員会 2003年)、記事にしたいとと思うだけでなく、ホンモノの石碑を見てみたいという欲求を満たすため、数次にわたって捜索を繰り返した末に、ようやく辿りつくことが出来ました。
第157回 「友利一族發祥之地」第157回 「友利一族發祥之地」
【左】遠景。何度も通った集落の道のすぐそばに隠れていました(電柱奥の雑木林)
【右】颱風でパギたといっても、この有様。この木々を押しのけて接近しました。


たまたま行き会った集落の方(この集落には何度か訪れているが、集落の人と出逢ったのはほぼ初めて)によると、友利の家の人たち(西嶺原の東部に割と固まっているようで、そちらを指さした)も、最近はあまり手入れをしていないようだと語ってくれました(その方は残念ながら友利家ではなかった)。

確かに石碑は福北・西嶺原の集落の中ほど、民家と畑の間に茂る小さな雑木林の中に眠っていました。台風タリム18号(2017年9月13日に宮古に襲来)の暴風によって木々がパギていたことが幸いして、雑木林の奥に石碑が建立されていることが目視する出来たので、目標にむかって折れた枯れ枝を力づくで退け、押し進んでなんとか石碑へと接近しました。

石碑の前には広くたたきが設けられており、作りとしては十六日祭が出来るお墓と同じような構造になっていました。想像するに墓ではないものの最盛期にはここで、一族が集まって祖先を参詣していたのではないでしょうか。現在はあまり人の手がかけられておらず、荒れたままとなっているのは気がかりではありますが、一族を憂い石碑を建立する心意気には敬意を表したいと思います。

この石碑は1964年8月14日に建立されたもののようで、石碑の背面にはこの友利一族についての系図が、「汝の父と母を敬え」の一文とともに書き込まれていました。
第157回 「友利一族發祥之地」
始祖の次に記されている「宮金豊見親寛忠」の名を検索してみると、「宮古の系図家譜 宮古島市史料2」にある宮金氏系図家譜支流の家譜がヒットしました。これによると名乗り頭は「寛」で、元祖知利真良豊見親寛忠七世下里与人寛長二子八世与那覇与人寛棟とあります。簡単に解説してみると、仲宗根豊見親の三男で宮金氏一門の祖となる、知利真良寛忠の七代あと子孫にあたる、下里与人寛長の二男のさらに8代あとの与那覇与人寛棟の家系というもので、石碑の友利一族とは直接関係はありませんが、大きな意味では宮金豊見親寛忠≒知利真良豊見親寛忠なので、同祖といえるのではないでしょうか。
そのあとの友利姓がこの一族の直接の祖先となるようですが、詳細は不明です。
ただ、この石碑が建立されたのが50年以上前の1964年なので、5男2女に広がった友利家はさらに一族は増えていることでしょう(沖縄の一代のライフサイクルの平均が20年くらいなので、三世代くらいは進んでいると思われます)。

もし、この石碑の友利一族に類する方がいらっしゃいましたら、ぜひエピソードなど教えていただけたら幸いです。




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