このところの
一連の流れから、琉球王府最後の村建てとして、先週は
西原集落の碑を取り上げました。その際にも少し触れましたが、西原と同じタイミングで最後の村建てとなった城辺の福里集落の石碑を、今回は紹介してみたいと思います。
それではまず、石碑の紹介からスタートです。
こちらのちょっと小ぶりのモノリスが、今回ご紹介する「當福里還暦記念碑」です。
石碑があるのは国道390号線、福里交差点から東平安名崎方面に、約350メートルほど行った道端です。旧城辺役場(現在は更地で、人頭税顕彰碑のみ建っている)からも、200メートルくらい過ぎたところ。そこに小さくも堅牢な小屋と、過日の大風で根元から倒れるも、未だその樹力は健在している大きな木が一本ある区画。明らかにここだけ周囲と異なる雰囲気を醸し出しています。
それもそのはず。ここはかつての福里村番所跡でした。いわゆるブンミャーとよばれていたいところです。当時の村番所は、人頭税の貢布であった宮古上布を織るための場所であり、材料となる“ぶー”を績むための作業場でもありました。役人の監視下、労働力として集落の女性たちはここに集まり“ぶー”績んでいたといいます。
つまり、“ぶー”を績む家で「ブンミャー」と村番所が呼ばれるゆえんです。時々、村番所を島のことばでブンミャーと呼ぶと思っているようなアナウンスがありますが、同じ敷地を示してはいますが、厳密には村番所とブンミャーは別のものです(他の村番所跡の発掘調査では、敷地内から複数の建物跡が見つかっています)。
現在、この村番所は拝所として集落の重要な位置を占めていす。敷地隅にある小屋は普段は扉が閉められていますが、その中に畏部が据えられており、集落で催される祭祀のほとんどに関わっています。宮古島市第2巻祭祀編(上)重要地域調査「みやこの祭祀」によると、年間18ある祭祀のうち、17がこのブンミャーを祭場としています(他の御獄や祭場を廻る祭祀も多数ありますが、必ずと云ってよいほどプンミャーが始まりの拝所となっています)。
さて、石碑です。
シンプルな碑面の表には「當福里還暦記念碑」と一行だけ刻まれています。集落を擬人化して60周年の祝賀を還暦と称しているところが、とても面白いです。きっとイマドキだったとしたら、萌えキャラのひとつも誕生していたかもしれません。
ところで、一文字目の「當」ですが、“当”の旧字体の読みにちょっと悩みました。単純に「福里還暦記念碑」であっても差し支えないのに、わざわざ「當」と書いてあるということは、なにかこう特別な読み方があるのではないだろうかと。
そこでWeb辞書を引いてみると、一文字では「あだて」と読むようようです。
あだて 【当▽】
①めあて。あてど。
例「今で請け出す-はなし/浄瑠璃・氷の朔日 上」
②手段。てだて。よすが。
例 「傍に拡げし書付に、主をはごくむ-とあるが/浄瑠璃・富士見西行」
けど、用例をみてもなんかちょっと違う。。。
やはり、こちらの方でしょうね。
とう(たう)【当】
①道理にかなっていること。
②「当の…」の形で連体詞として用いる。→当の
③仏「当来」の略。未来のこと。
④名詞の上に付いて、「この」「その」「私どもの」、また、「現在の」「今話題にしている」などの意を表す。
③の「仏」という意味があることに驚きを隠せないのですが、まあ、まずこれではないと思います。そうすると順当に、②や④の「当の」であると思うのですが、「當福里還暦記念碑」といような用例がない気がして迷ったのでした。つたない国語力しか持ち合わせていないので、正解をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示ください。
また脱線しましたが、石に戻ります。
碑の背面にはやや刻みが薄いのですが、上段に建設発起人として4名と、その下にさらに連名で8名の名前があります。また、碑の制作者と云うことでしょうか、彫刻者・川満方祥とも書きこまれています。
また、碑の細い両サイドには、右に「明治七年創立」、左に「昭和九年十二月」と年号が刻まれています。創立は西原と同じ明治七年。西暦1874年。60周年にして碑の建立が行われたとみられるのが、1934年の和九年。確か、西原では8月吉日が村建ての日となっていましたが、ここ福里では12月となっています。単に石碑を建立した月なのか、それとも厳密に村建てした月にあわせて12月なのかがは不明です。
この福里の村番所跡は、ブンミャーであり集落の中心であることは、祭祀においても中心的な役割りがあることからもよく判ります。そしてこの場所の小字は、福里の中央を意味する福中と呼ばれています。福里はこのほか、福北、福南、福東、福西と東西南北に5つの小字が分散しています。隣接する福西(福里交差点)を除くと、他の小字は福里(福中)の枝村であたったと云われています(確かに、福西以外はどれも少しだけ福中からは離れています)。
また、この明治になって作られた新い村、福里が琉球王府の間切から沖縄県の村へと切り替わった1908(明治41)年4月1日に施行された島嶼町村制(特別町村制)で、砂川間切にかわって、城辺村が設置されました。厳密には区割りがかなり異なるので、まったくの同一ではありませんが、城辺村の村役場が福里に置かれることになりました。
と、ここまで書いてから、非常に面白い記述を見つけてしまいました。宮古島市史「みやこの歴史」に、こんな記述がありました。
当時の戸数は1733戸、人口は9282人である。村の事務所はとりあえず、長間字のキャーギ嶺の砂川玄俊宅に置き、村長1、収入役1、書記4、雇員4、計10名で村政は始められた。役場は翌1909年に字福里877番地-1(合併前の旧城辺庁舎跡地)に新築、以後、城辺村の中心となる。
わずかな期間だったとはいえ、最初の村役場(仮設)が、福里ではなく西城のキャーギ(喜屋慶)で、それも個人の家だったということに驚かされました。
ちなみに初代の城辺村長は福里小(現在の城辺小。城辺の名を冠するようになるのは1941年から)を初めとした、宮古の小学校で訓導や校長を歴任して来た、執行生駒(しぎょういこま)が任命されています(当時はまだ任官制)。
学校沿革史を元に、執行生駒の職歴を年代順にまとめてみると、こんな感じです。
明治16年4月 北小に訓導として着任。
明治18年3月 北小から転出。入れ替わりの4月から、凹天の父・下川貞文が北小へ着任。
ところが、執行生駒の記録がここで、約1年ほどぷっつりと途切れます。
しかし、下地小の開校当時(明治19年11月13日開校)の項目には、「当初の運営者 訓導 執行生駒」という文字があるのです。また沿革史には、明治24年3月に至るまで、他校訓導の下川貞文と共に幾度か行事(学力試験など)のたびに、「下地小訓導 執行生駒」名前が登場しています。こうしたことから、執行生駒と下地小はかなり密接な関係があり、実は開校の準備とかに携わっていのではないかと妄想します。
明治19年8月。開校直前の
伊良部小の沿革史です。
「下地小訓導執行生駒本校訓導ニ兼任セラル、但シ教授セズ」
という、非常に謎めいた一文とともに、執行生駒の名前が登場します。
伊良部小では執行生駒が初代校長として、校史に記されているのですが、職員名簿の初代校長の名は吉岡元照であり、任期も明治27年4月からとなっています。この兼任は校長を兼任なのではなく、下地小と兼任という意味なのではないでしょうか。
では、もう一方の「兼任」先、下地小ではどうなっているかを見てみると。
明治19年11月から明治25年7月まで、訓導として長期に亘って執行生駒は在籍しています。
このあたりを考えると、やはり執行生駒は下地小で教務就いており、伊良部小には名ばかりの訓導だった気がします。
明治25年7月。遂に執行生駒は第3代校長として、福里小に栄転します。そして実に15年も校長職に留まり続けます。
余談ですが、この間。
比嘉財定が福里小に入学をしています。また、明治34年には友人であり同僚だった、下川貞文が急逝。追悼式典に参加しています。
そして明治41年3月。執行生駒は校長職を休職。初代城辺村長へと就くのでした。
【北小の歴代職員。執行と下川が校長以前に並び、友人にして宮古教育界の重鎮、臼井勝之助を初め、立津春方などの名前も見えます】
【関連石碑】
第62回
「顕彰碑(城辺)」
第121回
「比嘉財定先生之像」
第220回
「(伊良部小)百周年記念碑」
【参考資料】
旧城辺町字福里の「八月十五夜の行事」 本村清(pdf)