第233回 「南仲原清水井戸記念碑」

atalas

2019年05月21日 12:00



地味で地道でニッチでマニアな井戸にまつわる石碑シリーズが、もぞもぞっと今日も今日とてはじまりました。本日ご紹介するのは、大字は城辺の友利でありながら、福里学区という変わった地理要因を持つ、仲原集落にある井戸にまつわる石碑です。
仲原集落と云って思い浮かぶのは、仲原鍾乳洞と建設中の地下ダムでしょうか。あとはそうですね、キビ畑が延々と広がっているのどかな里山でしょうか。

こちらが今回紹介する石碑です。広くはない仲原集落ですが、南西側(民俗方位的には南)に家々が集う集落道の隅に井戸があります。井戸にはコンクリートの釣瓶が架かっており、蓋もされていたようですが、井戸の清掃(繁茂していた草木を刈り取った)で、中から生えている木を切ったためか、井戸口から斜めにず落ちていました。

石碑はそんな井戸の脇に建立されています。
昭和六辛未年九月七日設立
記念碑
南仲原清水井戸
とコンクリート製の碑に刻まれています。
昭和6年に開鑿されようで、十干十二支の「辛未(かのとひつじ)」が付記されています。尚、西暦では1931年になりますので、今年で88年目といったとこでしょうか。

碑の裏面には上段に「発起者」として池田正一、上里敏雄、比嘉真津の3名が、下段には「寄付者」として7名の名前が刻まれています。ただし、発起者と寄付者はダブっており、発起者以外に、友利當(?)、池田金、比嘉加真、佐和田蒲戸金の4名が加わります。カネ、カマ、カマドガネと、女性名っぽい名前が並んでいるように見えます。やはり井戸の水汲みは“女子供の仕事”という流れが、見て取れるかもしれません。この集落内の井戸が開鑿されるまでは、もしかすると遠くの湧水などに水を汲みに行っていたりするなら、この井戸によって労力と時間の大幅な短縮が成されたことになるので、タイムイズマネーだったかもしれません。

それはとともかく、碑の前には井戸掃除をした結果(成果?)かもしれませんが、いくつもの湯飲みと、酒(泡盛のカップ)、そして石の香炉のようなものに平香が供えてありました。
改めて写真を見ていて気付いたのですが、碑の左下。タイヤとの間にある割れた石(コンクリート?)にも、なにかが書いてあるように見えました。真実は不明です。もし、現地を訪れた方がいたらチェックしてみて下さい。

【左 北仲原井戸? 蓋のされた低い井戸口】 【右 拝所のような、香炉のような石】

南仲原と付くからには、北もあるのだろうと、少し集落内を徘徊(MAP)。するとそれほど遠くない道端に、井戸を発見した。特に石碑などもありませんが、板状の石(コンクリート)で井戸口に蓋をして、周辺をちょっと花壇化させてあるあたり、なんかそれっぽい。さらに隅に井戸の神様を拝みそうな石の拝所らしきものもあった。ただ、“北”をなのるにはかなり“南”に近いのと、人様のお宅の玄関先にあるので、本当にこれが“北”仲原井かどうかは定かではありません。
なんとも中途半端な結末ですが、確認しきれない物件は、それなりに多いのでこのくらいで勘弁してもらいたいです。もっとも、正解を知っているというのであれば、是々非々でご教示願いたいです。

そうそう、前述で述べた通り、仲原は大字は友利でありながら、ギリギリ標高100メートルに届かない保茶根の嶺(保茶根の根は嶺のネかも?)で本村と隔てられており、学区も砂川学区ではなく、距離的にも近い西側の福里学区(福里の集落は明治になってつくられている 第228回「當福里還暦記念碑」)に含まれています。友利から離れている理由について定かではありませんが、古くは“保良親道”(当時の国道、街道で平良から下地を経て保良に続く古道)が友利から保茶根を越えて仲原へと通じていたので、もしかすると今よりも比較的近い関係だったかもしれません。現在の国道(390号線)は仲原を通らずに、集落の北側を福里に向っています。また、集落の南方、海沿いを通る県道235号(保良上地線)も、仲原は通っていません。現在、保良親道は廃道となっており、保茶根の嶺の緑に完全に埋もれており、保良親道の時代のような、友利との結びつきは薄くなっているのかもしれません(実際は遠回りになったとはいえ、車なら問題になる距離ではありません)。

この東保茶根の嶺には、戦時中“友利砲台”と呼ばれた砲台が設置されており、今もその痕跡の一部が山中に残っているのですが、この砲台を建設した部隊は仲原公民館(旧)に駐屯し、マエノアブ(仲原鍾乳洞の北西180メートルほどにある鍾乳洞)を砲台建設用の資材置き場にしていたのだそうです。仲原集落から石畳の道を登って東保茶根の砲台建設に従事したという情報もあり、なにもない山に石畳みが忽然と現れるはずなく、おそらくこの石畳こそが、保良親道の痕跡なのではないかと考えられます。この頃すでに集落北の底原側を通る国道は開通しており、徒歩道・牛馬道規格であった親道はほぼ使われていないと見られる(戦後の空中写真でも、薄っすらと親道らしきものは確認できるが、現在は不明)。
この保良親道は友利側は圃場整備で痕跡は薄くなったものの、類似したルートがたどれます。仲原側は保良方面(皆粉地・七又方面)に向け、車道として整備されており、東保茶根の山中だけが失われているので、機会と時間と体力が許すのなら、オブローダーの師匠よろしく、廃道ルートを攻めてみたいと考えています(鎌鉈探検隊募集してます)

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