第235回 「溜池改造記念碑(山中)」

atalas

2019年06月04日 12:00



唐突ですが、今回は一度としてオチが落ちていない「謎の石碑-未解明ファイル-」シリーズです。これまでPart1で4回、Part2で6回、単発も1回と続いており、気づけば通算12回目となります。この未解明ファイルシリーズは、どうやっても掘り切れない謎の怪しい石碑ネタを、皆々様の叡智をもって解明してゆきたいという、誠に他力本願な企画です(タレコミをいただいたことは一度もありませんが)。

えー、石碑といいつつ、今回紹介する“物件”は、石碑然としていません。なぜなら、“そいつ”は低地にある畑の土留めの一部と一体化しているからです。場所は平良下里の山中になります。詳しく書くと、県道195号野原越七原線から県道200号川満山中線が分岐するとこですって、ここまで書いて、石碑とは一切関係ないのですが、このふたつの県道が、なんと今はもう県道ではなくなっていたという事実に気付いてしまったのです。何をいっているのか判らない?。ええ、それはもう己の目を疑いました。三度見くらいしました。一部のwebマップでは、まだ県道表示になっていますが、地理院の地形図ではすでに格下げされていました。

【沖縄県告示229号】
なんでも、2017(平成29)年の沖縄県告示229号によって、県道194鏡原増原線(76号城辺線の那底から旧宮原小前を経て、一周道路の83号線を結ぶ県道)を含め、県道195号野原越七原線(76号城辺線の中休み交差点から坂を登って王国会館を経て、栄寿園・青潮園、ぽぷり、石庭を通り、空港入口のレンタカー屋の190号上野線に合流する県道)と、県道200号川満山中線(国道390号の黄色点滅信号の川満ウプカー前から、県道190号上野線山中交差点を横切って、荷川取牧場を経て、前述の195号へ接続する県道)の3路線が、県道の扱いを廃止されてしまったのです。いやあ、驚きです(すでに路傍のヘキサはなくなっていました)。

【通称“ヘキサ(Hexa)”と呼ばれる、消された六角形の県道番号表記】

ついつい地図・道路マニアとして、ちょっと取り乱してしまいました。改めまして石碑があるのは、荷川取牧場とぽぶりの通りがT字になったところから、中休み方面に進んだカーブの内側にある畑の中です。
普通の石碑なら碑の裏面や側面になにかしら情報のようなものがあるのですが、土手として埋め込まれているので、それを確認したり手がかりになりそうなネタが得られないのです。だからといって、この低地の畑が溜池だったのかという、どうも古い写真をチェックしてみるとそうではないようなのです。

【左 石碑の埋め込まれている畑。左が現道、右が旧道】 【右 旧道沿いにある旧公民館の井戸】

ちなみにこの山中の集落を通る旧195号と、川満へ向かう200号の交点あたりは、この畑を貫くように新しい道を造成しており、古い写真でも畑だったことが判りました。
尚、当時の旧道はというと、川満からの旧200号が今の195号を突っ切って集落の中に直進し、一軒目を右に曲がって、件の畑の脇をかすめたのち、クランク状にカーブして、195線の中休み方面の道路へと出ます(B&Bカトルの近く)。
ちなみにこの出口の所は、現在、更地になっていて、淋しげに古いトイレがぽつんと残っています。この敷地が旧・山中公民館でした(現在は東外れのみやこ学園そばに移転しています)。この旧・山中公民館の旧道沿いには、蘇鉄がやたらと茂った井戸も確認できました。井戸の裏手の山には山中御嶽も位置しており、文字通り、山中集落の中心といえる場所のようです。

1973年に山中集落を調査された、“M大学”の“T松”氏ら(諸般の事情から出自を明らかにできませんが、イニシャルトークでも判る人には判る仕様です)による集落の資料(地図)と、現在の集落を見比べてみると、道路や田畑が改修されているものの、家屋の移転がほとんどありません。また、御獄と井戸の位置が残されており、これを現在の資料ととともに読み解いてみました。マップには該当位置を落としていますが、御嶽、井戸ともに現地が確認できているのは一部のみです。
アプローチの比較的よかった195号線沿いにある井戸を見つけることが出来ました。本来なら井戸のまつわる石碑シリーズで取り上げるべきでしょうが、せっかくなのでここで紹介しちゃいます。

【昭和6年に竣工した、井戸開鑿記念碑のある】

道路脇の下、約1メートルほどのところにある掘り抜き井戸で、現在はコンクリートの蓋がされています(隙間から覗いた中に水はあるようですが、かなり深いです)。そのすぐそばに「井戸開鑿記念碑」と書かれた小さな石碑が建っています。裏面に「昭和五年十二月三日出水、昭和六年一月吉日竣工」と記録されており、1930(昭和5)年と90年近く前の井戸であることも判りました。
外には、「ため池」と記された場所(旧公民館の北東)も確認できましたが、現在は畑になっており、痕跡や石碑とのつながりを見出せることは出来ませんでした。
諦め悪くあれこれと眺めていたら、もう少し古い1945年当時の米軍撮影の空中写真によると、195号線の中休み寄り、現在の宮古土地改良区のそばに、円形の池のようなものが写っており、その後の県道の開通によって消失していますが、これは溜池なのではないかと見ています。しかし、特に裏付けるものもなく、ましてこれが溜池だったとしても、今回取り上げている溜池改造の碑に繋がるネタもないため、コトの真相は不明なのです。

解決はしないので、最後はオマケで濁します。
もうずいぶんとに確認している物件ですが、旧道の入口(県道195号と200号が接するところ)にある、ちょっと怪しい廃屋。この壁面に薄っすらと残っているペンキ文字。こちら機器を駆使して画像を読むと、どうやら「共栄相互銀行」と書かれていまして、昭和29年から39年頃に存在した宮古島の銀行です。共栄相互銀行はの八重山相互銀行と合併。南陽相互銀行と合併。最終的に、現在の沖縄銀行へと合流します。沖縄銀行の系譜からすると傍流ではありますが、いくつもの合併して大きくなった沖縄銀行の中でも共栄相互銀行は、もっとも古く設立された宮古協栄無尽を源流としています(昭和24年2月1日認可)。ちょっと面白いですねぇ~けど、この場所に共栄相互銀行があったのかどうかは定かではありません。

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