えー、いつもようにひっそりと、しれっと井戸にまつわる石碑シリーズはじめます。もうネタが尽きるんじゃない?っとお嘆きの貴兄もいらっしゃると思いますが、井戸系に限っては時折、ポロっと井戸を発見した時に唐突に現れるので、思い出したようにこそっと続きます。本線である石碑も実はまだ、いくつかまだ大物とゆーか、有名な物件が残っていたりしますので、網羅するためにはそれもやらねば。
さてさて、今回紹介する石碑は、ぶっちゃけ公式名称すらありません(判明してない)。なのでタイトリングは仮称です。けど、まあ石碑とセットで紹介するので、気づかないふりして楽しんでいただけたら嬉しいです。
ということで、南棚根(ハイタナ子)井戸の碑です。こちらは大字でいうと、下地地区の洲鎌。その南端に位置する棚根地区になります。平たく云うと入江湾西岸地区なので、おおざっぱには入江(大字は嘉手苅)と呼んでしまうのかも(なにしろ入江に棚根港があるくらいですから)
えー、棚根集落は特に観光要素もない地味な存在なので、県道235号線保良上地線(海宝館からインギャー、入江、下地競技場、下地保健センター)を通過こそすれ、停まることなどほとんどないようなところ。
以前、渾身の棚根のネタを書いたことがありましたが、集落については触れることがありませんでした。
第190回
「バスのりば(棚根)」
こちらのネタでもなんとなく醸し出していますが、道路の改修によって集落のあり様が少し変わってしまった感のする時間の流れが見て取れます。今回の石碑のある南棚根の井戸は、公民館(洲鎌区コミュニティーセンター/棚根地区農村公園)に西方、点在する住宅群と畑の途中にあります。
よく見かける掘り抜き井戸ではありますが、井戸口の径が通常のものより少し小さいのがここの井戸の特徴と云えます。井戸廻りはコンクリートで固められたタタキで区画されており、転落防止にグレーチングが無造作に乗せられています。
そんな井戸の中から使用感のある鋼製のパイプが伸びています。どうやら畑の散水用にポンプで井戸から水を汲みあげて使っているようです。形は変われど現在も使われている井戸はなかなかお目にかかれないで、ちょっと嬉しいですね。
さて、肝心の石碑ですが井戸の脇にこっそり建立されており、パッと見には気づきません。
小さな石碑には「大正十四年之旧六月十日改築」と刻まれているようです(之がちょっと怪しいけれど)。
大正14年は西暦でいうと1925年、乙丑(きのとうし)の年でした。もう少しで100年になろうかという現役の井戸です。
改築前の姿が判らないのですが、井戸用地としてタタキで仕切られていることを考えると、近隣集落の水場と考えてよさそうです(小字のハイタナネとしては北西に寄っていることと、北側のニスタナ子に井戸をまだ見つけられていないのでやや地理的な配置に偏りがあるのだが…)。
この界隈、海もそれなりに近いのですが、井戸も意外と多いので、周辺で目についたものを備忘録的に少し紹介しておきましょう。
まずひとつめは県道の南側、数軒だけ離れて建つ一角で、外崎(フカザキ)御嶽への入口にある井戸です。余談ですが、外崎御嶽までは舗装もされており、車で入れます(簡易駐車場あり)。そこから林の中を少し歩くと、入江湾の湾口西岸の外崎へと出ます。見晴らしもよく、なかなか気持ちのいい穴場の岬です(実は近くに陣地壕やら銃眼もあったりします。戦時中の資料だと砲台もあった要所だったようです)。
基。井戸ですが、特に名前は不明です。人家の向かいの畑の中にあるので、個人井戸かもしれませんが、軍の要所(井戸の近くに蘇鉄はある)だった外崎の近傍なので、違った意味でのいわくもあったかもしれませんが、それを語る人がおらず、詳細は未明のまま。
ただ、綺麗にキビが刈り取られた季節にこの井戸を見ると、井戸脇に茂った一本の木とともに、なかなか絵になる里山の風景が拝めるのでした。
【① 外崎御嶽入口の井戸】
続いては県道沿いを与那覇方面へ少し行くと、右の道路脇に、枝ぶりのとても素敵なガジュマルが一本茂った四つ辻があります。このガジュマルの道向かいの畑の中に、掘り抜きの井戸があります。非常に残念なことに、石碑ではなく、井戸本体に「昭和八年 上地徳正 八月廿六日」と一筆書きこまれているのです。おそらく井戸の所有者と開鑿日なのだと思います。このように本体に情報が刻まれた井戸は、与那覇(本村)で見かけたことがあります。もしかしたらこのあたりの流儀なのかもしれません(もしくは一時のブーム)。考察できるくらい名入りの井戸が見つけられたらそれはそれでまた面白いのですが、もし情報がありましたらお寄せください。
ちなみに、この井戸の界隈は、与那覇皆愛(来間大橋のたもとの集落)の人々が、戦時中に陸軍西飛行場を建設するため、先祖代々住んでいた土地や畑を二束三文で買い取り接収され、代替えの居住地として移動してきた地域といわれています(戦後は国有地を借りて小作していたが、近年は買い戻した人も少ながらずいるようです)。ただ、年代的に西飛行場は1944(昭和19)年5月の着工なので、紹介した井戸の開鑿とは時期がずれるので、移住して来た時に掘られた井戸ではないようです。
【② 上地徳正の井戸】
さらに与那覇側へ県道を進み、市営第2棚根団地を過ぎた、与那覇との字境近くの蓋をされたコンクリート製の井戸がひとつあります。井戸のすぐ隣に水道メーターがあり、以前は建物があったと記憶しているので、これはおそらく個人宅の井戸と思われます。
この井戸の先(西)にある、四つ辻を境に、東側がこれまで紹介してきた南棚根(ハイタナ子)、北側は小字が変わってカ子ッサ(かねっさ)。そして西側は字与那覇の最東端にあたるカ子チャ原(カネチャバル)になります。
【左 ③ 水道メーターのある井戸】 【右 ④ スラブヤーに挟まれた畑の井戸】
ちょっと字名などが複雑になりそうなので、与那覇のカ子チャ原についてはまたの機会として、同じ洲鎌のカ子ッサへと曲がることにしましょう(北)。曲がってすぐ、スラブヤーの家と家に挟まれた畑の奥に井戸が見えます。雰囲気からして、かつてこの畑には家があって、その家主が使っていた個人井戸ではないかと思われます。
【⑤ カ子ッサの井戸】
最後に紹介する井戸は、もう少し先に進んだ畑の際に残っている古びた井戸です。掘り抜きタイプの井戸なのですが、井戸口は立ちあがったフチがなく、石を巡らせてかたどっているだけという簡素な作りですが、畑の中にありながら井戸の周辺はコンクリートのタタキが作られ、切石で転落防止用に蓋がされています。
こうした井戸の作りの古さから、カ子ッサの集落井戸と考えられます。しかし、現在、小字のカ子ッサには3戸しか人家はありません。廃れて久しい状況ですが、井戸を水を大切にする島の人たちの想いによって、辛うじて保たれている井戸と云えますので、いつまでも大切にして欲しいものです。
【赤い井戸マークが今回の南棚根井戸です】
【参考】
第61回
「人頭税廃止運動ゆかりの地 パチャガ崎」