2018年11月16日 12:00
こんにちは、一番座より片岡慎泰です。漫画家たちがこうして巻き込まれていくなかで、我らが凹天は「ただひたすらに生きのびた」ともいえるでしょう。時代の寵児だった凹天が、国家にすり寄っていった様子がうかがえます。漫画を描きながら飯を食うためには、ほかに方法がなかったようです。
森比呂志が、北澤楽天(きたざわ らくてん)のクロッキー教室や、凹天の「彗星会(すいせいかい)」で腕を磨き始めたのには、徴兵検査で丙種不合格になったことも影響したとも考えられます。それは子どもの頃に中耳炎になり、軽い難聴になったためでした。
この頃、岡本一平(おかもと いっぺい)が音頭をとり、凹天や麻生豊(あそう ゆたか)、宍戸左行(ししど さこう)、在田稠(ありた しげし)、柳瀬正夢(やなせ まさむ)を発起人として、「日本漫畫家聯盟」が発足(1926年)。すぐに、森比呂志はここに所属。師匠の凹天は、組織部委員長を務めました。組織部委員には、小野佐世男(おの させお)、教育部委員長には、柳瀬正夢(やなせ まさむ)。教育部委員には、須山計一(すやま けいいち)。また、村山和義(むらやま ともよし 1901年~1977年)、まつやまふみおこと松山文雄(まつやま ふみお)など多士済々のメンバーが集まりました。凹天は、1927年1月号『ユウモア』で「夢の宮古島よ! 可愛い/\日本漫畫家聯盟よ!」と記しています。
【銀座松屋】
翌年、日本漫畫家聯盟にとって最初の催しが、開かれました。催しはふたつ。ひとつは、銀座の松屋で漫画の展覧会。もうひとつは、讀賣講堂での演劇。長谷川如是閑(はせがわ にょぜかん)の劇作『馬鹿殿評定』(1925年)。ここで、我らが凹天も登場。紙をもってセリフを読み上げるだけでしたが・・・。
日本漫畫家聯盟は、いくつか催しをしますが、プロレタリア漫画に流れる漫画家が増え、すぐに、ほとんど組織としての活動停止。最終的には「日本漫畫奉公會」(1942年) の成立とともに自然消滅。
もうひとつ、忘れてならないのは「一平塾」の存在です。これは、宮尾しげを(みやお しげお)が一平の弟子第1号となり、『東京毎夕新聞』に『団子串助漫遊記』などを連載し、人気が出た頃から始まります。宮尾しげをが脚光を浴びてくると、自然と一平の周りに人が集まり始め、一時は60名を超えた親睦団体でした。一平塾は成立期も消滅期もはっきりしないのですが、清水勲、湯本豪著『漫画と小説のはざまで 現代漫画の父・岡本一平』(文藝春秋、1994年)によると、1928年成立。
親睦団体とはいえ、ここには、後に漫画界の重鎮となる近藤日出造(こんどう ひでぞう)、横山隆一(よこやま りゅういち)、杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)、清水昆(しみず こん)などがいました。
近藤日出造は、教育県といわれる長野県出身ならではの非常に実直な性格で、岡本一平の信頼を得て、『一平全集』(先進社、1929年~1930年)全15巻の刊行を任されるほどでした。そこで、一平の手法を学び、漫画の腕を磨きます。似顔絵の名手といわれ、戦後は、政治風刺漫画の第一人者に。戦後の1964年に「日本漫画家協会」が発足すると、初代理事長を務めます。横山隆一は、ナンセンス漫画の名手といわれ、早くから頭角を現し、「フクちゃん」というキャラクターを生み出します。杉浦幸雄は、東京美術学校の出身。いわゆる「江戸っ子」の典型のような人物でした。周りから鼻持ちならない奴と思われ、数々の衝突を起こしますが、後に反省。幸雄は、ユーモアかつエロマンガの申し子でした。森比呂志によれば、女を描かせたら、小野佐世男(おの させお)と双璧だとのこと。
【「近藤日出造の世界」(峯島正行 1984年)と、「杉浦幸雄のまんが本交遊録」(1978年)】
さて、話は前後しますが、時代は新しい波を迎えることになります。
1932年、当時ほぼ無名とはいえ、新進気鋭の新しい漫画家集団が誕生しました。名前は「新漫畫派集団」。
結成時は、杉浦幸雄著『杉浦幸雄のまんが交遊録』(社団法人家の光、1977年)によれば、1932年5月末、峯島正行著『近藤日出造の世界』(青蛙房、1984年)によれば6月下旬とのこと。杉浦幸雄の家があった本郷菊坂で、近藤日出造や横山隆一などが集合。団体を芸術団体、商業団体、親睦団体にするか、そして団体名を何にするかで大激論。そして、この時、凹天の弟子だった黒沢はじめ(くろさわ はじめ)が、表の顔は商業団体、裏の顔は芸術団体ということで、場を収めます。後に、森比呂志と並び凹天の高弟だった石川進介(いしかわ しんすけ)も加わりました。
【「モガ・オン・パレード 小野佐世男とその時代」(2012年)】小野佐世男を入れる動きもありましたが、最年少とはいえ、「日本漫畫家聯盟」の会員だったので「小野を新漫画派集団に誘いたがったが、敷居が高かった。小野も、ぼくら新しいマンガ家たちの動きに惹(ひ)かれていたようだったが」と後に横山隆一が回顧(かいこ)しています。小野佐世男は、東京美術学校在学中から『東京パック』(第四次)に風刺漫画が載り、マンガ会に麒麟児(きりんじ)現る、と騒がれたほどの逸材でした。その後も、宇野千代(うの ちよ)が創刊した『スタイル』(1936年)の常連寄稿家となり、女性風俗を描き、東郷青児(とうごう せいじ)や北原武夫(きたはら たけお)などと親交。この関係は、その後、陸軍に徴用されてからも、続きます。
同年には、北澤楽天門下生が集まり「三光漫畫スタヂオ」も結成されています。メンバーに、松下井知夫(まつした いちお)、西塔子朗(さいとう しろう)、小川哲男(おがわ てつお)、井崎一夫(いざき かずお)、根本進(ねもと すすむ)、志村つね平(しむら つねへい)、大野鯛三(おおの たいぞう)など。
これには、時代背景も合わせて考える必要があります。ひとつは、当時の漫画が、芸術か、生業(なりわい)のためか。東京美術学校出身や東京美術学校を目指した者も多かっただけに、これは表現者にとって大問題。もうひとつは、漫画が個人で描くというより、楽天や岡本一平など、すでに有名になった漫画家の下に集まったグループで、新聞社や雑誌社から仕事を請け負う仕事だったためです。
そこで、漫画で食えるためには、集団を作って、新聞社か雑誌社に所属するしかなかったのです。しかし、そこは、楽天や一平を中心とした「日本漫畫會」、そして凹天や豊を中心とした「日本漫畫家聯盟」など、すでに大御所が押さえていました。そうでなければ、漫画を新聞か雑誌に投稿するか「持ち込み」しかなかったのです。若手の「持ち込み」の辛さは、かの手塚治虫(てづか おさむ)も記録に残しています。このあたりは、良くも悪くも、現在の「日本記者クラブ」を思わせます。
新漫畫派集団が結成された翌年、森比呂志は、麻生豊と近藤日出造に銀座の富士アイスに呼ばれます。そこには新漫畫派集団に入っていない、これまた当時無名だった新進気鋭の漫画家たちが。そこで、ふたりから、新漫畫派集団に負けないよう、プロとしてスタートすることを進められます。凹天や宍戸左行も後押しするからとのお墨付き。
森比呂志たちは「新鋭マンガグループ」という名の団体を作ります。創設期のメンバーは、村山しげる(むらやま しげる)、秋好馨(あきよし かおる)、杉征夫(すぎ まさお)、森熊猛(もりくま たけし)、南義郎(みなみ よしろう)、秋玲二(あき れいじ)、小泉四郎ないし紫郎(こいずみ しろう)など。
すぐに、森比呂志は頭角を現し、また人脈もあって1935年に創刊した文藝春秋社『オール讀物號』漫画賞を受賞。
新鋭マンガグループは、当時の銀座八丁目にあった九州ビルの三階に事務所をもちます。森比呂志は川崎から通勤。しかし、約2年でビルは焼失し、服部時計店の近くにある並木ビルに移動。そこで森比呂志は、喫茶店のマダムと恋に浸ったりします。
その後、森比呂志は、森永キャラメルの内箱に昆虫漫画を描くことに。岡本一平が監修で、昆虫学者の石井悌(いしい てい)と佐々木邦(ささき くに)が顧問でした。メンバーには、近藤日出造、清水昆、横山隆一、杉浦幸雄、秋好馨など。
グループに分かれたとはいえ、若手漫画家の離散集合が繰り返され、また当時、岡本一平の力が絶大だったことがうかがえます。
森比呂志は、昆虫漫画を描いた仲間たちと飲みに行き、最後に清水昆とふたりになったところで、遊郭へ。比呂志の方が美人の芸妓(げいぎ)にあたったと思ったら、淋病をもらうはめに。ちょうどその直前に、ピアニストと一夜の契りを結んだばかりでした。そこのことをピアニストに打ち明けらずにいると、相手から「貞操だけ頂いたら、あとは寄りつかないなんて絶交だわ」。すでに、森比呂志は、親にピアニストとの仲は打ち明けていたらしく、父親は当時の国分寺に新居まで建てていたと記しています。比呂志にとって公私とも暗い時代だったようです。「恋や仕事どころでない。三年苦しんだ」。そして、女性遍歴にもピリオドを打つことに。軍事色はますます色濃くなり、はやっていたのは岡本一平作詩の「とんとんとんからりと隣組」。
【とんとんとんからりんと隣組】
1940年に、秋田本庄の綿屋出身で、身寄りが亡くなり東京に出てきた千恵子と結婚。それは、奇しくも森比呂志の師匠であった凹天が、二度目の妻なみをと一緒に暮らし始めたのと同時期でした。比呂志の妻千恵子は、初夜に森比呂志を「指も細く、女の人のような手」といいます。これには、石工職人だった森比呂志もびっくり。確かに、森比呂志は白魚のような手の持ち主だったようです。と同時に、当時の田舎暮らしの辛さが伝わってきます。実際に、自宅の防空壕掘りとかはすべて、千恵子が行っていました。
翌1941年には、娘のやす子誕生。しかし、同年12月8日に、妻の千恵子が脳溢血で倒れ帰らぬ人に。森比呂志は「朝のラジオは真珠湾攻撃のニュースを流していた。号外が鈴の音もけたたましく日米開戦の報を叫びながら巷を走っていた。人々は、とうとうくるものがきた、と緊張した。そうして私の家にも衝撃的なことが起こったのである。妻が他界したのだ」と記しています。
軍国主義は漫画界にも強い影響を及ぼしました。大衆とともに時流を享受していた時代は、あっという間に過ぎ去ります。画材も自由に手に入らない状況に危機感をもった「三光スタヂオ」代表の松下井知夫と西塔子朗、「新鋭マンガグループ」の南義郎と杉征夫が、1940年に銀座三丁目のオリエントで「新漫畫派集団」に乗り込む算段をします。彼らの不安は、軍部にとって大衆宣伝の道具としての漫画は強力で、そうすると一番目立つ「新漫畫派集団」一本に統制されてしまうのではないか。ひいては自分たちだけでなく新進の「漫畫突撃隊」、「国防漫畫隊」まで、排除されてしまうのではという危惧でした。その後、「新漫畫派集団」の事務所に入ります。すると、「集団側から近藤、杉浦の両君が気軽に話の聞き役になり、あとの連中は皆机に向って熱心に仕事をしている事務所内のムードが、私たちには不安な印象だったことが今でも思い出される」と松井井知夫は述懐しています。
こうして誕生したのが「新漫畫家協會」。これが戦後の1964年に設立された「日本漫画家協会」の母体となるのです。
1943年には「日本漫畫報公曾」が結成。会長は北澤楽天。顧問に岡本一平。副会長は田中比佐良(たなか ひさら)。理事長に麻生豊(あそう ゆたか)。凹天もその一員。プロの漫画家になったのが遅かった森比呂志にとって、それは突如として明治大正期の漫画家が続々とリターンしてきたような気がしたのではないでしょうか。実際、凹天や北山清太郎(きたやま せいたろう)と並び、日本の商業アニメーターの草分けである幸内純一(こううち じゅんいち)とも、初めて出会います。森比呂志は、幸内純一と大阪周辺にあった貝塚市の大日本紡績(現・ユニチカ)工場に慰問。一緒に軍事徴用された人びとの似顔絵を描きながら、森比呂志は幸内純一の作品を横目でみて、「その素描性、芸術性に、息をのんだ」「私の筆を持つ手はわなわなとふるえた」。
【なまくら刀[デジタル復元・最長版][白黒ポジ染色版] 幸内純一(1917年) 日本アニメーション映画クラシックス】 ※clickすると動画が再生されます
他方で、「日本漫畫報公會」の長老支配に反発したグループは、近藤日出造を中心として、「大東亜漫畫研究所」や「報道漫畫研究會」を作ります。
そのような戦時下の1944年6月、森比呂志は美容誌の仕事で銀座の並木通りに出かけますそこで出会った美容師の美代子と再婚。結婚式当日に、森比呂志は軍事教練があり、身体はキズだらけ。徴兵令で不合格になった民間人にも、軍事訓練をさせる非常事態の時代でした。帰宅した時には、すでに花嫁の輿入れが始まっていました。森比呂志は、すぐに国民服に着替えたものの、身体はへとへとで目はくぼんだまま。仕出し屋の弁当も貧しいもの。それでも、娘のやす子は「お嫁ちゃんがくるのよ」とはしゃいでいました。
以上、一番座より、片岡がお届けしました。