2022年01月02日 09:59
今日は宮国さんの誕生日です。今回のトップバッターは、小中学校の後輩である本村佳世(もとむら かよ)さんです。
本村 佳世
高校生の頃、ボーダーインク社のいわゆる「沖縄本」にハマっていた。そこでの話や文化が独特で面白く、勉強そっちのけでのめりこんで読んでいた。でも、「沖縄本」とはいえ、どうしても沖縄本島の話題が中心になってしまう。自分の出身である宮古とは言葉も文化も違っているので、寂しさも感じることもあった。せっかく、ばんたがみゃーく(われらの宮古)にも、面白い人も文化もあるのに。だから、宮古の人もこういう本を出したらいいのに、といつも思っていた。
社会人になって2年目の夏、宮古に帰省した時のこと。ブックボックス(現・TSUTAYA)に寄った私の目に飛び込んできたのは『読めば宮古』というタイトルの本。迷わず購入した。そうそう、これ!これさいが!私の欲しかった本。あがい、たんでぃがーたんでぃ(感謝!)。
ページを急ぐようにめくっては、心当たりのある言動に笑い転げた。それから何度も読んで、そのたびに大笑い。この本を編集した「さいが族酋長」宮国優子さんに、会ってみたい。そして、『読めば宮古』を書い方々にも。当時の私にはしかし、自分から連絡をしてみる勇気はなかった。
数年後、ある SNS を始めたばかりの私のもとに、一通のメッセージが届いた。
「宮国優子と申します、怪しいものではありません」
と始まる、そのメッセージを見た時の衝撃は、忘れない。宮古の方言のことについて書いていた私の日記の文章を読んで、気に入ってくださったとのことだった。あっがいたんでぃ!あこがれの人からメッセージをいただくなんて、人生でそうそうない。狂喜乱舞した。
数ヵ月後、優子さんから会いましょうと、まさかの連絡があった。2005年12月18日、自由が丘のスタバで待ち合わせ。初対面とは思えないほど、話が盛り上がった。東京でこんなにひたすら平良ふつを話すことがあるとは思ってもみなかった。当時の手帳を見ると、5時間以上。ここは本当に東京かと思うくらい、次から次へと話題が続く。あんた〇〇、知ってる?同郷の名前が次々と挙がる。私はそのとき、宮古出身なのに宮古らしいものも何も身につけていないこと。そして、せめて祖母が毎日話していた方言だけは、引き継ぎたいんです――。と、そんな話をした。
それから、優子さんからお誘いがくるように。宮古の人の集まり、宮古に関するイベント、講座…たくさん縁を繋いでいただいた。周りに同郷の人もなく、疎遠になっていく一方だった「宮古」を、先輩の優子さんが引き戻してくれたのだった。それだけでも、ご恩は尽きない。
なかでも2010年は忘れられない年だ。宮古のあたらすっふぁ(大切な子ども)たちが、故郷の言葉や文化を受け継ぎ生かしていける人材になれるような機会や拠点づくりをしたい。そんな思いで、優子さんを中心として「一般社団法人 ATALAS ネットワーク」を設立した。そこに立ち会えたことは、本当に光栄なことだと今でも思う。
優子さんと最初で最後の共同原稿がある。イベントレポート「『宇宙とヒトをつなぐもの』スペシャルレポート PART1、PART2、PART3」は、ATALAS ネットワークの設立直前に書いたものだ。ATALAS の設立のための書類や企画のやり取りをしている最中、「一緒に取材に行って記事を書こう!」と誘ってくれたのだ。今読むと、口語調の文体に慣れていない私のせいで、ハチャメチャ感がすごいが、取材も記事執筆も、貴重な体験で、今でも私の宝物になっている。
ATALAS としてのチーム活動は、優子さんが旗振り役となって何年も続いた。宮古の高校3年生に向けての冊子『島を旅立つ君たちへ』の制作も、その活動から生まれた。高校を卒業すると、その多くが進学・就職のために宮古から離れて行ってしまう。そのとき、故郷のことを少しでもよく知って、誇りに思っていてほしい。どんなときでも故郷が、心のよりどころとなりますように。
私は出産・育児のために『島を旅立つ君たちへ』の最初の発行(2015年)をもってしばらく活動から離れていた。育児がもう少し落ち着いたらまた、と思っているうちに、優子さんは旅立ってしまった。
ATALAS の活動のために、一緒に書類と奮闘して、一緒に調べ事をして、一緒に原稿を書いて…それは、私の「宮古にかかわることをしたい」という思いが、かなった日々だった。優子さんに感謝の念しかない。
いつだったか、私の夢は、祖母たちがそうしていたように、歳を取ったら毎日おばぁ仲間で集まって、方言でおしゃべりして過ごすことだと話したら、「私も!いつか宮古に帰ったらさー、店でも開いて、そこで一日中誰かとしゃべっていたーい!」と返してくれた優子さん。私も、「そしたら私、その店にむぬゆん(おしゃべり)しに行きますよ」と。それから何度となく同じような話をした。訃報を聞いたとき、真っ先にそのことを思い出した。あがえー、優子さん、もう、かなわないさいが…。
夢といえば、優子さんが一度だけ夢に出てきた。
昨年3月の終わり。夢の中で、優子さんと私は、コンテナみたいな広さの真っ白な部屋にいた。優子さんの背後には、白枠の窓。窓越しの向こうも白。曇りの日だったのかもしれない。内部の壁は薄く白い塗料。床には薄黒く木目の透けて見えるアンティーク調の木材が敷き詰められていた。私はその一角の、やはり同じ木目の机にノートパソコンを置いて仕事をしていた。優子さんはその対角の壁際にある、ゆったりとした背もたれの椅子に腰かけ、膝の上にいつもの MacBook をのせて、いつものように仕事をしているようだった。優子さんからそのとき、声を掛けられたのだ。「ねぇ、プリンター貸して」。優子さんの右側には、丸いテーブルがあって、白いプリンターが置かれていた。どうぞー、と私は応えたと思うが、夢はそこまでしか覚えていない。
優子さんがプリンターで出力したかったのは何だろう。私は何か、手伝えることがあるのだろうか、今も気になっている。
宮国優子さん。私とは正反対の、大きな視点をもてる人だった。私の手をいつもぐいぐいと引っ張ってくれた。そのちょっと強引なところが、宮古らしさ、そのもの。たんでぃがーたんでぃ、優子さん。
私はこれからも、優子さんに繋いでもらった宮古との縁を大事にしていきます。
あけましておめでとうございます。片岡慎泰です。本村さんなので、「一番座」から登場です。やはりこの決まり文句がしっくり。
今回は、まず、われらが凹天の自筆年譜の一部を紹介します。凹天が日本最初のアニメーション制作開始が、たま子との新婚時代であった可能性がきわめて高いことについて、この巻では岡本一平(おかもと いっぺい)の『夜泣寺の夜話』で検討しました。
川崎市市民ミュージアム所蔵
この自筆年譜については、伊藤逸平(いとう いっぺい)や大城冝武(おおしろ よしたけ)が、紹介していますが、残念ながら不完全です。また、凹天の実人生を精査すると、謎は深まるばかりです。しかし、ここでは「大正五年」、とりわけ「大正六年」と手書きした後、「大正七年」と書き直したことに注目してください。
「大正六年」、つまり1917年は、凹天が日本最初のアニメーターになった年です。例えば『凸凹人間』(新作社、1925年)には、次のような記述があります。
『凸凹人間』
『凸凹人間』のこの記述を信頼すれば、天活(天然活動寫眞株式會社)との契約そのものは、1917年1月なのかもしれません。しかし、すでにリッテンとの一連のやり取りや、岡本一平(おかもと いっぺい)の『夜泣寺の夜話』などで根拠を示しましたとおり、それ以前、すでにアニメーション制作の話がもちこまれていました。
繰り返しになりますが、われらが凹天は、たま子との自由恋愛時代、すでにアニメーション制作を始めていたのです。それも、たま子への激しい愛ゆえか、失明状態に追い込まれるほどに。しかし、結婚してほどなく、たま子は心身を崩してしまいました。