えー、懲りずまたまた戻ってきてしまいました。とってもローカルにして超絶的にマイナーで、地味で地道な井戸系の石碑へ。
とはいえ、人が暮らしていくためには水を欠かすことは出来ません。ですからそこには里の人々が、井戸の開鑿や改修の際に、水への感謝とともに末代まで残る記録を石碑にしたためました。
それは村建ての記録であり、里の息づかいであったりします。そして里に暮らす人たちの営みであり、祈りだったりします。井戸は同時に里の祭祀にも深くかかわり根付いていることを、小さな石碑がこっそりと教えてくれます。そんなかすか痕跡を丹念に拾い集めると、とても興味深いなにかを見せてくれることがあるのです。
これまでも何度か同じ「清泉」のタイトルで井戸に関する石碑を紹介しましたが、この地の井戸の石碑もまた「清泉」と刻まれています。
こちらの「清泉」は、東仲宗根添の宮積集落内の畑の中にあるンメズンガーの脇に建立されています。
宮積を含むこの地域は、古くは“山北”と呼ばれていた場所(
山北分校跡地)。最近は元宮原小学校の学区名を取って、宮原と呼ぶ方が馴染みがあるようです。そんな“宮原”の一番西(鏡原寄り)にある小集落(里)が宮積です。漢字的な読み方は「みやづみ」ですが、島読みでは「ンメズン」とか「ムメズム」と呼ばれています(ヅではなくズと表記されるのは現代仮名使いの影響か?)。
もう少しこの地域を紹介してみると(簡単に)、大字・東仲宗根の添村(そえむら)であることからも判る通り、独立した村(字)としては、比較的新しい区域(1902年/明治35年)です。この宮原界隈は水はけのあまりよくない原野を開拓して拓かれた、いわゆる畑番屋(パリパンヤー)が発展して集落化した場所で、どうやら名子の集落が多かったようです。そうした要因もあってか、北は高野あたりから南は更竹あたりまで、かなり広範囲に小さな里が点在してます(宮積、ムトヤ、砂、南増原、北増原、瓦原、土底、更竹。ただし、高野は戦後の入植詳しくは
コチラ)。
碑文には昭和二十八年五月三十日改修と記されています。戦後の日付なので、おそらくコンクリート製の釣瓶や井戸まわりのたたきなどとともに、使いやすく改修されたのだと思われます。
そして石碑にはもうひとつ年月が石碑に書かれています。少し欠けていて完全には読めないのですが「昭和二年四月」と読むことが出来ました。改修年月日よりも古いので、こちらがきっと井戸の開鑿された記録だと思われます。ちなみに昭和2(1927)年ならば、時代的にもあちらこちらで井戸の掘削が行われていた頃になるので、近代化が農村部に浸透している過程ではないかと考えられます(いわゆる上水道は1950年代以降まで待たたなくてはならないので)。
先頃発売された『宮古島市史第2巻祭祀編(上)重点地域調査』によると、宮積の「ユーヌタミ」と「シツ」の御願(同日に開催)で、このンメズンガーは拝まれているようです。
本よるとこの祭祀は旧暦の四月頃の甲午(きのえうま)に行われており、午前中に高嶺御嶽、ミドゥン御獄、ンメズン御獄、ユーヌヌス御獄の各所をツカサとともに廻って、集落の繁栄を祈願するそうです。そして午後は、各戸でンメズンガーに水香を備えて水への感謝を祈願しているようです。余談になりますが、水香とは特殊なものではなく、井戸など水系の神は火を嫌うので、香は焚かずに供えた香のことです(画像にもイビ代わりの石碑に供えられた香は、焚かれていません)。
記述についてはちょっと専門性が高いのですが、祭祀の詳細な情報が細かく書かれているので資料としてはとても素晴らしい本なので、興味のある方はぜひ早めの入手をお勧めします(販売数量がかなり少ない。宮古島市島内の主要書店にて販売中。税別5000円)。
【清泉関連石碑】
第109回
「清美 一九六三年三月四日」
第156回
「清水御神(福北・西嶺原)」
第160回
「清泉(長南西更竹)」
第161回
「清泉水建設記念(南根間)」
※井戸にまつわる石碑はこのほかにもたくさん寄稿しています。