番外編 フォルモッサタイフーンサーカス 2018新春SP

atalas

2018年01月19日 12:00


2017年8月から連載が始まった一柳亮太さんの「フォルモッサタイフーンサーカス-台風コラと台湾サーカス団 1966-」(以下、FTC)。
今から50年とちょっと前。第二宮古島台風コラと台湾サーカス団のタイムラインが、宮古島で偶然にも交錯しました。その時なにがあったのか、興味の赴くままにそれを手繰ってみると、当時の興味深い様々なものが見えてきました。
今回の「FTC新春SP」は、連載の中からこぼれてしまったけど、そのままにしておくにちょっともったいない、そんなエピソードを中心に、あれこれと一柳さんとテキストライブ形式で対談してみたいと思います(聞き手:ATALAS Blog編集人モリヤダイスケ)。

※     ※     ※     ※     ※

モリヤダイスケ(以下、モ) : 形式的に記事にするために、「新春SP」と銘を打ってみましたが、確かFTCを書くことになったきっかけのひとつが、こうしたチャット(メッセンジャー)でのやりとりでしたね。

一柳亮太(以下、柳) : 初めは、「台風コラの時に宮古島にサーカスが居たらしい」という話を聞いて、モリヤさんにチャットで聞いたら「それらしき動物の写真がある」と教えてくれたのがきっかけで。
【画像はクリックで拡大します】

http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13398

【左】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13396
【右】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13397


柳 : それがこの辺りの一連の写真。
柳 : 檻の中の猿が何かをかじってる写真で、実は続きで虎とかライオンの写真もあるだけど…ちょっと生々しい写真もあるので自粛(笑)、各自で検索していただければ。とにかくこの写真はサーカスでは、という話になったと。

モ : ちょうどこの話の少し前に、ATALAS Blog火曜日の「んなま to んきゃーん」のネタで、「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑を取り上げることになって、資料として沖縄県公文書館のHPをひたすら見てたんですよ。

柳 : ここのデータベースは、当時の琉球政府が行政関係の資料として、出張や行事、要人の動きを撮した、記録というかメモのようなスナップが膨大にあって、FTCにまつわるキーワードで検索すると、台風コラ通過後の琉球政府や米軍の視察、開発青年隊の活躍の様子などを結構細かく撮っているんです。ただ、スナップなので具体的な場所や被写体の人物などの情報はほとんど記録されていなくて、詳細が分かりにくいのですが、その場の息遣いや雰囲気が伝わって来る写真が多いのが面白いのです。
沖縄県公文書館 「写真が語る沖縄」
戦中戦後の沖縄の写真がご覧になれます。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics


柳 : 次に、このデータベースで調べたのが、東方大サーカスが宮古島公演のテントを張って会場にしていた場所が知りたくなった時でした。当時の広告には、「会場:大和自練跡地」としか書いていなくて…。それでなにか無いかと調べてみたら、こんな写真が出てきました。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13401

柳 : ところが大和自練跡地の位置がわかる資料がまったく無くて、その場所が判らないんです。一応、「カママ嶺の辺りが会場だった」という話はありました。自動車修理工場が多かったから自練(=自動車学校)も近くにあったのではないか、被害状況を調査するのに必ず訪ねたであろう気象台(現宮古島地方気象台)に近い、というのが理由です。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13402
柳 : 写真には「東方」とサーカス団の名前とマークが記されたテントや、先に掲載した動物が載せられていたらしき檻の車が見えて、「ダイハツ サービスステーション」と掲げたお店も写っています。

モ : 宮古にも弾丸ツアーでやって来て、いゆる“場当たり”。現地調査と称して、島を廻りましたよね(笑)

柳 : 「東方大サーカスを呼んだのは、大和自練のオーナーだった真栄城徳松(元平良市長)の身内だった。そして大和自練は、カママ嶺の下にあった」という真栄城氏の親族の話も、人づてにですが聞きました。ただ、物証がないんです。それで、次にモリヤさんが見つけてくれたのがこの写真。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13387

【左】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13388
【中】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13403
【右】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13404


柳 : 「もしかして、サーカスのテントでは?13388と13404が実はつながっている」と(※数字は画像下に記載した元画像のリンクURLの末尾にある固有番号です)。

モ : 最初は鉄塔(支柱?)をケーブルが似てる・・・同じだよ~なっと。さらに注意深く見て見ると、テントらしきものもがある。。。そんな感じでした。
あと、今、見直したら13402の写真の真中にある弧を描いているのモノは、元教習コースの縁石だったりするのかな?(13401の左下の布の下にもちょろっと見えている)

【無理矢理、三枚つなげてパノラマ風に加工してみした。家々が少ないので、奥に市街地東部の山並が見えます】

柳 : 確かに。ここが大和自練跡であるなら、確かに練習コースの縁石のように見えます。なるぼと~。あっ、3枚目の写真(=13403)をみて下さい。「ORIENTAL CIRCUS」と書いてあったような看板もあります。一部分だけだけど。写真左側、黒地に白文字の。「CIRC」という文字が見えるので…。

モ : このやりとりをしていた時は云わなかったけど、この(下の)13391、13392は気象台ではないかと、確証を探っていたけど、確定できなかった。(笑)

【左】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13391
【右】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13392


柳 : 確証は持てないけど、丘の地形はそれっぽいんですよね。ただ、左側にフェンスがあって、掲揚されている旗が星条旗に見えませんか?。米軍の施設?、あの辺りにありましたっけ。。。
まあ、総合的に判断して現時点で、サーカスの公演は、カママ嶺の下、今のサンエーカママヒルズの南側に広がる住宅地辺りじゃないかと、9割方思っています。

モ : 気象台の旗。星条旗だとしたら、戦後すぐに測候所は宮古民政官府に接収されていますから、それではないでしょうかね。当時の様子が「みやこの歴史」(宮古島市史1巻通史編)にも掲載されています。

モ : そしてこの画像。奥の丘はまだ公園になる前のカママ嶺で、その左手の丘の上に気象台が写っています(マクラム通りから気象台へ続く道も判る)。
余談ですが、この写真は当時の平良市庁舎(先代の庁舎)の屋上あたりから撮影されているのですが、画像の手前にある「友利電気」の建物は西里通りに今も現存していますが、そこの屋上に飛び出しているコンクリートの柱が見えます。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14713

柳 : あ、これ、以前聞いた、1966年の東京オリンピックを見るために本島のテレビ電波を受信するためのアンテナでしたっけ…ちょっと話が脱線しましたが、気象台の建物、確かに見えますね(伍號の記事に掲載したアンテナの画像)。そして高くて目立つ。あ、13391と13392で写ってた建物が写真左端に見えませんか?。高い塔までありますよ~。すると、やっぱりサーカスの会場はカママ嶺の下あたりの可能性大ですね!。

モ : 改めて公文書館のデータベースで「第二宮古島台風コラ被害状況」を検索して、眺めていたらいくつか気になる写真があったので。まずはこちら。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14792

モ : 「バスのりば」って標柱を見つけた。バス停なんだろうけど、どこだろう。前後の画像を見ると城辺のおっぱい山が写っている画像があったり、水没した畑(想像では低地で水はけが悪く、瑞福隧道を作った加治道あたりのような雰囲気がする?)があたったので、城辺のどこかであろうと予想。いずれも視察の車内から撮影したものと思われ、手前の風景(主に道路際の草)がブレている。
【左】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14790
【右】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14801


柳 : バス停があるから道沿いなのは分かるけど…具体的な場所は分からないですねー。

モ : 保良のバス停(営業所?)に停まっている丸いお尻の城辺共栄バス(現宮古協栄バス)の画像も出てきました。格好いいですね!。

【左】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=12039
【右】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14791


柳 : これとか、城辺っぽい感じがします。

モ : 次はたぶんトゥリバー。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14911

モ : まだ、トゥリバーが埋め立てとかされていな頃で、奥の方には伊良部島が見えています。そして正面のトゥリバーの崖地に、秘匿壕らしき影があるようです。

モ : GoogleMapを見ると、山の形もほぼ同じだから、場所の同定ができた。

柳 : ああ、これは確実にトゥリバーですね。ところで秘匿壕とは?

モ : トゥリバー特攻艇秘匿壕群といって、陸軍の特攻艇(べニアのモーターボートに爆弾を積んだけの肉薄兵器)を格納しておくための壕を奥の崖地に掘った場所です。実際には壕の構築部隊が穴を掘っただけで終戦となったため、特攻部隊は配備されず出撃もありませんてせした。

モ : つぎはこれ
【左】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=15388
【右】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14203


柳 : 平良の市街地でしょうかね。

モ : キャプションでは「松岡政保行政主席 ワトソン高等弁務官 視察」とあり、他にも室内の写真もある。琉球政府宮古総合庁舎(現宮古島市役所第二庁舎。RC造)や、琉米文化会館(初代の木造はサラ台風で倒壊。二代目はRC造だが、老朽化を理由に2011年に取り壊され、市役所の駐車場となっている)とは違いますね。
細かいけど、植え込みにある小さな鳥居がとても気になる。ちなみに2枚目の14203は、倒れた木の奥の方に写っている!。

柳 : 木造で、どこですかね。鳥居は白で塗られているのが気になります。しかし、行政主席と高等弁務官の視察は、台風が通過して2日後の9月8日ですね。このふたりが揃ってこんなに早く視察に来るとは、台風コラの被害の大きさを物語ってますね。


http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14717

モ : ちなみにこちらが琉球政府宮古総合庁舎。左下の前庭に、宮古王こと盛島明長の銅像が見えます(笑)。
盛島明長(もりしまめいちょう) 医師、国会議員。ここに建立された銅像は、次に旧宮古神社へ移転。さらに宮古高校正門前へと移転を繰り返します

柳 : あ、庁舎前に停まっている車!。これで走っている車と同じように見えますね。視察団の車ですかねぇ~。

モ : こんなのもありましたよ。なんなとく間違いなさそうな感じです(笑)。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=12037

モ :手前のL字型をした建物。これが在りし日の琉米文化会館ですね。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=14705

モ : 琉米文化会館はなにかと思い入れあるのでねぇ(笑)。ちょうど2017年の年末に、元県立(その前は琉球政府立)図書館宮古分館である、宮古島市平良図書館北分館が、38年の歴史に幕を閉じ、閉鎖になりましたからね。

島一番のハイカラ情報発信地~宮古琉米文化会館
「惜愛」 宮古島市立平良図書館閉館式
さようなら北分館/平良図書館(宮古毎日新聞 2017年12月29日)
38年間の歴史に幕/図書館北分館きょう閉館(宮古毎日新聞 2017年12月28日)

柳 : 建物が消えた琉米文化会館や、恐らくこれから消える北分館のように、記念碑や模型が残されれば、建物の場所や形は分かるんですが、その施設が実際何をやっていていて、どんな人が出入りしていて、という場の空気感は伝わらないですよね。
今回「写真が語る沖縄」を調べると、その時の雰囲気がより立体的に見えてきました。実は他にも調べたいデータベースがあって、例えば第弐號「サーカスがやってきた」で使った東方大サーカスのテントの写真、これは「典蔵臺灣」 という中央研究院という台湾の国立研究所が開設しているデータベースで見つけたんですが、ここにも膨大な写真があって、例えば「沖縄」で検索すると…まだまだ何かが眠ってそうな気がします(笑)。

モ : 台湾のデータベースですか~それもちょっと、いや、かなり興味深いですね。写真から時代や場所だけでなく、思惑や背景まで探るというこの企画はなかなか面白いので、なんかテーマを決めてまたやりたいですね。
劇終

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