第伍號 「最大瞬間風速85.3メートル」

atalas

2017年12月15日 12:00



台風コラが記録的な台風として今でも語られるのには、現在でも破られていない最大瞬間風速の記録、85.3m/sを観測したことが挙げられます。当時、実際台風に遭った方々は「もっと強い風が吹いていた。あれは風速計が壊れて、観測できなかったからだ」なんてお話されます。

【写真:平良市制25周年・祖国復帰記念誌より 1972年】
ただし、話を聞くと出てくるのは、風の強さよりも「暴風雨の長さだった」とのこと。
約3日間に渡って閉じ込められ、とにかく早く過ぎ去って欲しいと願うばかり、とのことでした。

前回の最後に紹介した「恐怖の38時間-第二宮古島台風の記録-」、およそ1年後の1967年8月に発行されたこの本のページをめくると、行政主席や宮古地方庁長の挨拶に始まり、子どもから大人からまで、様々な人々の手による生々しい体験記が集められています。台風コラの被害に対し本土からの支援に対する、報告書としての性格もあるようです。

この本、宮古連合区教育委員会という聞きなれない組織が発行しています。本土復帰前の沖縄で、教育委員会は現在のような市町村や県の一組織ではなく、法人格を持つ独立した組織でした。この宮古連合教育区は、各市町村に相当する範囲ごとに設置された教育区を地域ごとに束ねる、連合教育区の一つでした。教育行政の組織が台風の記録をまとめる不思議な気がしますが、背景として、本土からの支援の背景には当時の盛んだった復帰運動があり、その担い手として教育関係者の存在が大きかったからではないかと考えられます。

話が脱線しましたが、この本で最も興味深いのが実際観測に当たった宮古島気象台職員の手記です。
台風が近づく9月3日から臨時勤務体制に入り、4日朝には家族を鉄筋コンクリートの家へ避難させ、「カンヅメにされ」ながら気象台に迫り来る台風を観測し続けていました。筆者は、1959年の台風サラ(宮古島台風)の後に備えられた、気象レーダーの観測を担当していました。記録的な最大瞬間風速を観測したのは、5日午前6時30分。
その時を筆者は「6時30分の観測を終った直後、回転しているアンテナが一時、停止し、急に逆回転をはじめたので、スイッチを切り、アンテナを風に流す。(中略)これで今まで情報を提供しつづけた、レーダー観測は終り、レーダー室は静まりかえった」他にも手記には生々しい話が記されています。
閉めた雨戸がきしみ、ガラス戸の隙間から滝の様に水が流れる中、建物の補強を続けながらの観測。そのような暴風の中でも外に出て観測を続ける観測員。ついに食料が尽き断水で水も飲めない中で「これで宮古島の農作物と木造家屋は全滅だ」と感じながら、あきらめで為すすべもなく椅子でぐったりしている様子が描かれています。

【写真:第二宮古島台風コラ被害状況 1966年9月7日撮影 沖縄県公文書館所蔵】

さて、このような被害をもたらした台風の最中、台湾から来た「東方大サーカス」の面々は、どのようにこの台風をやり過ごしていたのでしょうか。トラやライオンたちはどうなったのでしょう。
次回は、台風通過直後にサーカス団を助けたとある家族の証言をもとに、話を進めたいと思います。



一柳 亮太(ひとつやなぎ りょうた)
1978年生まれ。神奈川県川崎市出身。2001~2015年にかけて沖縄に在住。タイムス住宅新聞「まちの記憶」連載(城辺の「瑞福隧道」について書いたりしました)など、ライターとしての活動を行うも、現在は東京で会社員。興味関心は乗り物一般、ちょっと昔の出来事、台湾など。

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