第弐號 「サーカスがやってきた」

atalas

2017年09月15日 12:00



1966(昭和41)年9月、宮古島を通過した台風コラ。死者は出なかったとはいえ、宮古島に莫大な被害をもたらしました。当時の新聞をめくると、この年は台風の当たり年だったようで、台風の発生や接近を報じる記事が、ほぼ切れ目なく載っています。

ここで時計の針を少し遡り、この年の7月に戻ります。
子どもたちが夏休みに入った7月末、那覇の奥武山公園にある野球場の横に、普段見慣れないテントが建ち、辺りからは動物の鳴き声が聞こえていました。このテントの主こそが、台風コラと並ぶもうひとつの訪問者、「東方大サーカス」です。

【左:サーカスが興行を行った当時の奥武山野球場前の広場 沖縄県公文書館 1969年9月撮影】
【右:当時の広場は現在のセルラースタジアムの正面ゲート付近から西側あたり】


東方大サーカスは、台湾で活動していたサーカス団で、この年、那覇、宮古、石垣での巡回公演を果たすべく来沖したのでした。当時琉球新報を読むと、7月20日から始まった公演には、台湾から総勢55名の団員が、虎にライオン、象など引き連れて、公演を始めた様子が写真入りで掲載されています。
自転車のアクロバット走行、皿回しに曲芸、動物の芸が紹介され、そして得意技とされているのが「空中ハリガネ金字塔」。
写真を見ると、1本のハリガネ(おそらくワイヤーロープでしょう)の上を、4人が2人を、その2人が1人を階段状に支えながら綱渡りをするという技です。
新聞に載った公演の広告には「世界五大サーカスのひとつ」というキャッチコピーが記されていて、大げさなのでは、と思ったのですが、こうして演目を知ると、あながち嘘ではないのかも、と思い直してしまいます。
紙面での紹介は割と大きく、それも22日、29日と2回に渡って紹介されたのには、琉球新報が東方大サーカスを呼んだ勧進元であったという背景があるようですが、お陰でその公演の様子が詳しく分かりました。
その後の様子を見ると、公演は概ね好評で、チャリティーとしての無料招待も気前よく行っていることから、興行としても成功を収めた様子です。

【1965年に台湾で撮られた「東方大サーカス」のテント。ほぼ同じテントが沖縄でも使われたと思われる。典蔵臺灣/大中華與東方馬戲團】

沖縄本島では既にテレビ放送が始まっているものの、白黒テレビの時代。まだまだ人々は娯楽に飢え、台湾から来た物珍しいサーカスに詰めかけたのでしょう。その成功を引っ提げて、東方大サーカスは次なる舞台となる宮古島へ向かったのです。


【写真史料】
『沖縄県公文書館/全琉水道週間 第2回全島パレード 那覇 奥武山球場前広場
1969年9月 琉球政府関係写真資料 122
『典蔵臺灣/大中華與東方馬戲團
不詳1965年 (ac_ph_chang029) 《數位典藏與數位學習聯合目錄》
一柳 亮太(ひとつやなぎ りょうた)
1978年生まれ。神奈川県川崎市出身。2001~2015年にかけて沖縄に在住。タイムス住宅新聞「まちの記憶」連載(城辺の「瑞福隧道」について書いたりしました)など、ライターとしての活動を行うも、現在は東京で会社員。興味関心は乗り物一般、ちょっと昔の出来事、台湾など。

「島の小さな大きい放送局」()

関連記事