第柒號 「その後の東方大サーカス」(完)
前回、台風コラ襲来後の宮古島で、東方大サーカスを助けたご一家について記しました。面白いもので、こうして書くといろいろな話が集まってきます(故に、不完全でもこうして書いておきたいのです)。中には「ライオンの赤ちゃんがいて、餌やりをした」という話も。まだ詳細は未確認ですが、興味深いのでこうして書き置いておこうと思います。
台風の被害を乗り越えて東方大サーカスは宮古島を離れ、次なる公演地石垣島へと向かいました。八重山毎日新聞には9月1日、ついで4日に「近日大挙来島! 9月15日より」と広告が掲載されています。気になるのは「30年ぶりの先島最大のショウ!」というフレーズ。30年前というと1936年ですが、戦前の石垣島にサーカスが来ていたのでしょうか? そしてもうひとつは「動物20頭余、美女団員60数名」と、宮古島公演の「猛獣二十数頭、美女、七十名余」より規模が縮小していること。とはいえ台風前の1日付の新聞で既にその陣容ですから、予定通りかもしれません。「美女、団員」はご愛嬌。
台風コラは八重山地方でも猛威を振るい、特に石垣島では平久保半島で多数の被害が出ました。新聞の紙面も「伊原間は軒並み倒壊」「平野三戸残し全滅」と見出しが悲惨な状況を伝えています。特に北端の開拓地、平野での被害は甚大で「苦節十年の結晶水の泡」と、肩を落とす住民の声が伝えられています。
そのような状況中、東方大サーカスは14日に石垣島に到着しています。珍しい動物を見物しようと、港へ人が押し寄せたのも宮古島と同じ。しかし台風後の慌ただしい状況で予定通りに行えるはずもなく、港の埋立地が「にわか動物園」となって公演開始を待つ日々でした。17日、18日と延期された挙句、20日からようやく公演が始まります。会場も、当初の「八重山観光ホテル横広場屋外大テント劇場」とされていましたが、桟橋広場と変更になりました。宮古島で「屋外大テント劇場」が壊れてしまい、仕方なく別のテントを建てたようですが、「再び来た台風で壊れてしまい、空中ブランコは演じられなくなった」と記事が載っていました。公演が進むにつれ載った広告には、石垣島で撮られたらしき写真が載っていますが、どうやら屋外で行われています。余談ですが、八重山毎日新聞は、勧進元かそれに近い立場だったらしく、公演開始の遅れや中断があっても、紙面にサーカスに関する記事を載せて、話題が途切れないようにしています。
さらに開始翌日の21日には「サーカス観覧は連絡を」と記事が載り、「開演準備が遅れ、午後1時開始が4時に。バス借り切りで団体見学にきた裏地区(注、裏石垣と呼ばれた石垣島北部のこと)学校は日程がくるい不満をぶちまけた」という記されています。台風の被害を受けて難産の石垣島公演でした。
東方大サーカスは10月4日まで石垣島で公演を行い、台湾へ戻りました。その後のサーカス団の行方はようとして分かりません。唯一見つけた記述は、高雄市労工博物館の年表にあった「1980年3月、給与未払いで紛争に」というもの。テレビが普及し、豊かになる社会と娯楽が変わる中で、サーカス団は立ち行かなくなってしまったのでしょう。しかし今回の連載は、当時子どもだった方の「台風コラの時、宮古島にサーカスが来ていた」というほんの一言から始まったものでした。サーカス団は消えても、当時の島の子どもたちが受けた感激や驚きは、消えていないのです。
(完)
【参考文献】
「恐怖の38時間-第二宮古島台風の記録-」 宮古連合区教育委員会 編(1967年)
「從家班到團隊-臺灣戰後雜技表演之歷史考察(1945~1972)」郭憲偉・蔡宗信,臺灣體育學術研究 第48期(2010年) P55-78
「東方大馬戲團(公演プログラム)」東方大馬戲團 発行(年代不詳・1960年前後?)
沖縄県公文書館 写真が語る沖縄
「台風コラ」「第二宮古島」などで検索
典藏台灣 中央研究院 數位文化中心
「東方馬戲團」で検索
高雄市勞工博物館 台灣勞工史 > 1950 - 1999
下記新聞の1966年6月~10月分の紙面
・宮古時事新報
・宮古毎日新聞
・八重山毎日新聞
・琉球新報
また本連載について当時の証言や資料収集について、陸月子さん、高田玉美さん、村下悦子さん、菅谷聡さん、モリヤダイスケさん、宮古島市立平良図書館北分館の皆様、以上の方々にご協力戴きました。記して御礼を申し上げます。また、2017年に陸月子さんが逝去なさいました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
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