平良五箇字の北端、荷川取集落にある人頭税石。平良港臨海部を走る西環状線沿いにあり、今では観光名所としてもよく知られています。今回からお待ちかねの新シリーズ、「人頭税にまつわるエトセトラ」がスタートします。
第1回はシリーズタイトルに色々な意味で大きく関係している、この人頭税石を取り上げたいと思います。ご承知の通り、これは石碑ではありません。石造りのモニュメント?とでもいえばいいのでしょうか。別名を「賦測石(ぶばかりいし)」とも呼ばれていたりします。謎解き…とはいいませんが、この石にまつわるエトセトラを綴ってみたいと思います。
まず、最初に触れておかなければならないことがひとつあります。このどことなく歴史が漂い様々ないわれがあることから、史跡と思われがちですが、国・県・市いずれからも史跡の指定を受けてはいません。つまり、ただの石でなのです(今のところ)。
次に、人頭税についてざっくりとしたおさらいをしておきましょう。
まず、読み方から。「にん」なのか「じん」なのか。現地の案内板には「にんとうぜい」であり、島の人に聞くとほぼ間違いなく「にん」であるのに対し、内地人はついつい「じん」と呼んでしまっている傾向にあります。
そこで両ワードをグーグルで検索してみたところ、「にんとうぜい」が約 1,070,000件、「じんとうぜい」は約 2,910,000件と、圧倒的に「じん」が勝ってしまっていた(予想通りといえばそれまですね。ごめんなさい宮古島の人)。
けれどここはやはり、島の読み方を尊重して「にんとうぜい」と読むように努めたいものです(ただ、使っているPCの予測変換では「にん~」ではうまく変換されません)。
続いては人頭税の歴史を簡単に振り返ってみます。
1609年の薩摩侵攻により琉球王府は、薩摩藩の支配を受けることになり、薩摩への納税により財政的に困窮した琉球王府は、1637年に宮古・八重山の島々に人頭税を課します。この税制は琉球処分が行われ、琉球藩からさらには沖縄県となった後までも続きます。古い制度を尊重することで琉球士族への懐柔策とする明治政府の方針でもありました。
1892(明治25)年、250年を超えてようやく転機が訪れます。越後国頸城郡板倉村稲増(現・新潟県上越市板倉区稲増)から、南海の島々で真珠養殖の野望を胸に秘めた男、中村十作(なかむらじゅうさく)が導かれるようにして宮古島へと降り立ちます。この一歩が彼の人生と、島の運命を大きく変えることになります(詳しくは劇画「
島燃ゆ~人頭税物語」などをご覧ください)。
1893年頃から人頭税制廃止運動が興り(明治になり社会構造の変化により100パーセント超の大増税を引き金とする研究もある)、指導役を担った中村十作と城間正安(那覇出身の製糖指導員)、農民代表の西里蒲(城辺福里)、平良真牛(城辺保良)の4名が上京。して、帝国議会や議員、有力者などに請願活動を行います。
そして1637年から続いた人頭税制度はようやく、1903年に廃止されることになりました(この東京での請願活動も、東京に住んでいた十作の弟・十一郎や、後に
実業之日本社の社長を勤める、十作と同郷の増田義一といった人物が登場し、議会の解散などの憂き目にあいながらも挫けずに立ち向かうエピソードはなかなかに興味深いのですが、これはまた別の機会に)。
では、どうしてただの石柱が、人頭税と結びついた。
影響力が大きかったものとしては、大正時代(1920~1年)に九州東海岸から沖縄諸島を訪れ、その際に宮古島も訪れた民俗学者・柳田國男が著した「海南小記」(1925年)に、人頭税石と背の高さが同じになると課税されたと記し、それが流布されたことでこの逸話が有名になったとされています。
また、昭和11年に来島した
河村只雄(社会学者。彼が離島した11月13日は、
独逸皇帝博愛記念碑60周年祭に出席する一行が那覇から到着したその日で、名残惜しげに一行が乗ってきた船で八重山へ向かっています)も、「南方文化の探求」(1938年)の中で「戸籍の確立して居ない当時に於いて、15歳の男女の身長の高さの石柱を役所の庭に建て、適齢と思われる男女を呼び出して、身長を検査し、この標準石柱に達したものには凡て人頭税を課した」と著しています。どちらも伝聞の域を出ないことから、もしかしたら今でもよくある、宮古人流のもっともらしく聞こえるジョークがそう信じ込ませてしまったのかもしれません。尚、実際には1714年頃から宮古島には正確な戸籍があり、年齢(15歳~50歳)によって課税されていました。
いずれにせよ、人頭税の課税の仕組みが明文化されるまでは、この石が課税の基準であると思われていました。では、いったいこの石はなんなのか?という疑問が湧きます。信仰の対象であるとか、天体観測の道具であるとか、様々な伝承があるようですが、今のところ真実を知る手がかりはありません。
少し余談になりますが、島の南、城辺の七又の集落の近くに、その名も
“ニセ”人頭税石なとと呼ばれているものもあります。丈は荷川取のものよりずっと低いく、単純に石柱だからそのよう呼ばれているような印象です(
神の杵鬼の杵とは別モノ)。他にも同じく人頭税が課税さていた石垣島にも、
似たような石柱が現存しています。
宮古の人頭税石に話を戻しましょう。
現在、道路脇に鎮座している人頭税石ですが、ほんの少し前まで道路のあたりは海でした。港の近代化と拡張が進むに従い次々埋め立てられ、人頭税石は海からはずいぶん離れてしまいました。
それでも記録の中にその記憶はしっかりと残っており、もっと海が近かった頃の画像を初めて見た時はとても衝撃的でした(
人頭税石と少女という構図が素晴らしいのこともある@渡辺良正)。人頭税石は被写体として撮られやすいのか、時代を追うように記録されており、周辺の埋め立て具合もそれとなく確認することが出来ます。
伝承によると、仕事を終えた村の若い男女が、夜毎、「ンミャガーニのウプユマタ(宮金家の大四辻~人頭税石の所在地)」に集まり、明け方まで踊り明かしていたといわれ、これが踊り継がれたものが荷川取のクイチャーとなっているともいわれています。
そう考えると昔から人頭税石のある場所は、人が集まりやすいスポットなのもしれません。
最後に、人頭税石ばかりに注目が集まるので、、あまり知られてはいませんが、この人頭税石のすぐ前にはこじんまりとした降り井があり、今もこんこんと水か湧いています(井戸名のメモを紛失してしまったので、改めて調べるも当確が出せるほどはっきりとした答えが見つかりませんでしたが、恐らく「ミツザガー」と呼ぶかと思われます。正確な名称をご存じの方、ぜひご教示下さい)。
【写真キャプション(上から)】
1枚目:人頭税石
2枚目:「宮古の歴史・文化財」 宮国定徳(1975年)
3枚目:「宮古人頭税廃止85周年記念シンポジウム・資料展」プログラム(1987年)
4枚目:「宮古を訪れる高等弁務官」米国政府撮影写真/USCAR広報局(1970年)
5枚目:「人頭税石」渡辺良正作品展 「沖縄先島の祭りと風土」(作品展会期2003年)
6枚目:人頭税石前のカー「ミツザガー」(?)
【参考資料(pdf)】
石垣島の星見石について
【関連記事~人頭税にまつわるエトセトラ以前のUP】
第3回 「川満亀吉顕彰碑」
[改訂 20151202]