はい。先週は全国7000名の友利姓の皆さんのアイデンティティに強く訴えかける、
「友利一族発祥の地」の碑を先々週
(「清水御神」)から助走をつけて取り上げ、こいつあ~久々にバズるぜ~!っと鼻息も荒くしての公開となったのですが、どうも友利姓の人々はATALAS Blogをご覧になっていないようで、いつにも増しての低空飛行に終わり、勝手にひとりで期待を大きくしていたので、地味にやっちまった感の自打球をクリティカルでヒットさせてしまいました。ま、読者貴兄にとってはどうでもいい結果報告はともかく、もう一度、初心に戻ってこつこつと井戸にまつわる石碑シリーズの再開です。
ということで、上野は宮国の北端。(字)上野との境界に近い名嘉山(なかやま≒名加山)です。もう少し細かく云うとハイテマカという集落に位置する立派な掘り抜き井戸の脇にある、「井戸鑿掘記念碑」という石碑が今回の主役です。
すでになんか色々地名が飛び交っているので、地名について補足しておきますと、旧上野家村の大字・宮国にある、行政集落でいうところの名嘉山という地域。この名嘉山の公民館があるのがテマカ地区で、テマカ、ニシテマカ、アガリテマカ、ハイテマカに別れています(いずれも小字)。
井戸があるのはハイテマカで、この「ハイ」は南を意味する島の言葉ですが、中央にあるテマカの西側に位置しています。また、アガリテマカのアガリは東を意味しますが、テマカの南側にあります。
そうです。磁北とは異なり島特有の傾きがある、
民俗方位が冠されているのです。残ったニシテマカはテマカの北側にあるので、このニシは北(ニスの転訛)とは思われますが、アガリテマカと対をなす位置にあることから、もしかすると西(イリ)の可能性もあるかもしれないなど、色々と考察させられてしまう民俗方位と磁北(図上方位)の関係性があります(たぶん、ここは音からして北でいいばす)。
また、ハイテマカの北側から西側にかけては、(字)上野で接しており(上野村分村前は、字・上野は下地の嘉手苅の一部で、上野と云う大字は分村した時に新しく作られたもの)が接しており、ガーラバリやヤーバルといった古めの集落があります。なんかもうすでに説明からしてマイナー臭がプンプンしていますが、ついてこれる方だけついて来てください。
話の尽きない地名の話はこのくらいにして、石碑に戻りましょう。まずは碑面の文字についての自己フォローから。
難読漢字の「鑿掘(さっくつ)の「鑿」は“のみ”のこと。掘ったり穴をあけたりするという意味がりあます。また、「記念」の「記」は「己」ではなく、「巳」を使った異字体の「言巳」ですが、パソコンでは表現できないので、便宜的に記を使用しています。
石碑の建立は「昭和五年旧四月十日発水」とあります。西暦にすると1935年。もちろん戦前です。また、「発水」という書き方は面白いですね。やっと水が出たというような印象を与えてくれます。
井戸の周辺を見てみると、裏手に小さな林があり、その脇を畑に沿って水路(水は流れていない)があり、井戸の道向かいにも排水池(深い水路?)のような構造物があり、なんとなく水っぽさが感じられます。とはいえ水が湧きそうな地形でもなく(洞泉だったとしたら穴は埋まっている)、地形を広く大きくみると、このあたりは宮国の北側を頂点にした丘になっており、ガーラバリから入江湾へと緩く下っています。改めて水路を見てみると、どことなく勾配もそんな風に見えてきます。
ところどころ摩耗していますが、石碑には両側面と背面に関係者の名前が刻まていす。
左側面には石工とあり、下地姓の名前がふたり書かれています(姓はなんとか読めるが、名はかすれている)。背面には三段に区切られ、最初のひとり目に代表者として新里姓(やはり名前は読み取れない)の名前があります。以下、名前が書かれているようなのですが、残念ながら摩耗しているのではっきりとは読めません。これまでの井戸にある石碑から考えるに、おそらく当時の集落の長や出資者などの名前があったのではないかと思われます。
そして右側面。ここには発起者として刻まれた9名の名前があります。
池間加真、金城屋真、下地加眞、仲宗根明傳、下地坊、上地加真、伊志嶺與野志金(?)、上地坊、伊志嶺金得
女性名と思われる名前が4つ。さらに“坊”が“某”の意味であるとするならば、発注者か石工が名前を知らなかった、下地家と上地家の嫁のことをそう書いたともみれるので、それを含めるとしたら6名もの女性の名が発起者として記されていることになります。当時の水汲みは婦女子の仕事とされていたことからすると、この井戸がなかった頃は、周辺集落まで水を求めて行き来していたことになりますので、彼女たちの井戸を掘って欲しい!という願いの顕れが、発起者という形で結実しているように感じました。
じゃあ、いつ頃からこのテマカ(ハイテマカ)に人がいたのだろうという疑問も浮かびます。
しかし、例によって資料がとっても少なく、古い話ははっきりとしたものがないので、あるだけ、判るだけのことを列挙してみましょう。
位置的にはテマカの東方(アガリテマカ)になりますが、史跡・
テマカ城跡があります。
城跡と云っても平坦地に築かれた城なので城らしさはまったくありません。しかも、大正の頃までは高さ6~7尺(およそ2メートル)ほどあった石垣は、戦後に土木工事の材料としてほとんど持ち去られてしまったそうです。現在の城跡内は御嶽となっており、「ヤマトガムキリウヌス」という祭神が祀られています。
この祭神にヤマトの名があるということからなのか、郷土史家の
稲村賢敷は「倭寇」の隠里説を唱えられていした。実際、祭神の「ヤマトガムキリウヌス」とたびたびことをかまえて争っていたのが、入江湾のそばにある
クバカ城跡を居城とする久場嘉按司(雍正旧記 1727年)で、このクバカ城も倭寇の活動拠点(入江湾は入口が狭く船を隠すのには都合がいい)だったと云われています(農民の総代たちが人頭税廃止の相談をした
パチャガ崎はこの近く)。
けど、稲村賢敷には悪いけど、クバカはともかくとして、テマカは海で生計を立てていたと思われる倭寇の拠点であるとするなら、ちょっと海からは離れすぎやしてないだろうか?。
時代はぐっと進んで、下川凹天もかつて在籍(明治41~45年頃)していた陸軍陸地測量部が制作(地図は軍事機密となる)した、大正10年測量、大正12年発行の地図によると、右から読む「國宮」「オトナウ」(ウナトウ)「ルバラアガ」(ガーラバリ)といった集落の名が見て取れますが、テマカや名嘉山といった名はありません。
続いて、戦時中に連合軍が撮影した白黒の空中写真から。ハイテマカの近くにうっすらと白く浮き上がって見えるところがあります。畑地が多い区域で道路以外に白くなっているところは、おおむね人の行き来があったとみられ、おそらく軍の部隊が駐屯していた可能性があります。
テマカを含む島の南西側のエリアは、歩兵第三聯隊を中心として防禦を担当しており、ナベアマの戦闘指揮所や、嘉手苅のイリノソコ陣地など、重要拠点もテマカからは比較的近くにあります。すぐ西隣りのガーラバリには、歩兵第3聯隊第1機関銃中隊が駐屯していたとされており、テマカあたりにもなんらかの拠点があったと考えられます。
尚、写真の中央にあるのは野原につくられた陸軍中飛行場で、滑走路周辺の白い道はナウサ(珊瑚石)を転圧してかためたマカダム舗装の誘導路です。これだけはっきり見えていると、連合軍は攻撃の目標に迷うことはなさそうです。
【Lt. Roy M. Huffingtonコレクションより iyako Shima-Nansei Shoto HIRARA Air Field 撮影19450303】
お待たせいたしました。手元の資料をひっくり返して、ようやくひとつ。「らしい」記述にたどり着きました。
「宮古諸島 学術調査研究報告書(地理・民俗編)」(琉球大学沖縄文化研究所 1966年)によると、テマカ集落は明治の頃に福里、伊良部、山北(宮原付近)、下地から寄り集まって出来た集落のようで、この当時(本の調査時)でも5世代目だったとのこと。
しかし、大正時代の地図に集落の様相が描かれていないということは、水利も得られなければ集落は発展も見込めませんので、集落と呼べるほど個数がなかったのか、畑番屋(パリバンヤー)のような状態だったのかもしれません。
わずかな記録と現況だけで、風呂敷を広げて考察してみましたがいかがでしたでしょうか。改めて水と人の生活≒集落の成立には密接な関係があることが見てとれました。