第149回 「泉神 いなで井改修之碑」

atalas

2017年08月22日 12:00



このところなんとなく続いてる井戸シリーズですが、今回でいったん止めます。なにしろ気付いたら次回は、連載150回のキリ番回なのですもの。つい先日、連載100回記念にひとりお祭り花火三連発(100101102)を打ち上げたばっかりだと思ったら、もう1年なんですね(1年は約52周)。
ともあれ、今回巡る井戸シリーズはこちら。

「泉神 いなで井改修之碑」というシロモノ。
建立されているのは下地地区の洲鎌にあります。もう少し判りやすく云うと、下地神社こと「ツヌジ(津野瀬)御嶽」の北方の畑道のきわにあります。
記念碑の元となる掘り抜きの井戸に加え、石碑と香炉が三点セットで立派な門柱と低い塀に囲われています。
碑面に「泉神」と記されているあたり、島の人々に大切にされてきたことから伺えます。そもそも井戸や湧水は、生活にかかせない水を得る場所として、古くから「水の主」など水系の神に感謝して拝む場所として位置づけられていますので、井戸に香炉が置かれ拝む場所として形作られてゆくことは決しておかしなことではないのですが、「泉神」と記されている井戸は初めてみました。
これは井戸の改修時に完全な神格化、待ったなしと云わざるを得ません。改修は昭和8年7月25日とありますから、あと16年もすると100年が経過しますので、きっとこの井戸は付喪神(つくもがみ)として現出するかもしれません。

碑の右側面に刻まれた改修の日付は、昭和8(1933)年7月25日。戦前のいわば色々な意味でイケイケな時節にあたります。
また、いなで井のそばにあるツヌジ御嶽(下地神社)に建立された(後に破壊される)、『忠魂碑 陸軍大将鈴木壮六」は昭和7年3月10日に完成し(同時に御嶽は神社化された)、下地小学校の児童らを動員して、盛大に完成祝賀式典が催されたそうです。
それから一年後に、いなで井が改修されていますから、直接的ではないにしろ集落の勢いとしては繋がっているような気がしてなりません。しかしながら、資料が少なすぎていまひとつすっきり解明できません。

とりあえず、古い記録といえば毎度おなじみ「雍正旧記」(1727年)を眺めて視ると、洲鎌村の井戸の記述は4件。

おくら井。但、掘年数不相知(あいしらず)。
川多井。但、右同斷。
ちやう井。但、右同斷。
みやくし井。但、右同斷。

と、記されていますが、いなで井に該当しそうな井泉はなさそうです。

続いて、いつもお世話になっている「平良市史」第9巻資料編7(御嶽編)を紐解いてみると、井戸ではなく御嶽のひとつして紹介されていることが判りました。
これによると、いなで井の祭神は「ミズヌヌス(水の主)」で、水量が豊富な井戸だったそうです。今でもツヌジ御嶽の祭祀で使用する水に使われているとのこと。
そして昭和8(1933)年の改修後、井戸まわりを固めたコンクリートの沈下や、井戸内への土砂の堆積が増えたため、昭和63(1988)年に現在の形に再改修されているということが判りました。残念ながら付喪神になる100年のカウントもリセットされ、あと70年くらいかかることになってしまいました。これでは泉神・いでなの現出は当分なさそうですね(すでに祭神水ぬ主だといわれているのにもかかわらず・・・)。

ひとつ、知っていても得にはならない余談を紹介しておきます。
いなで井の道向かいに旧下地町が造成したと思われるツノジ公園があります。ふだんからこの公園にはあまり人気がありませんが、公園の中に旧下地町の町章をかたどった花壇(花が必ずあるわけではない)があります。宮古島市となった現在では遺物遺構となっていると考えられます。ちなみに宮古島市熱帯植物園の園内には、平良市の市章をかたどった花壇があり、伊良部島の牧山にあるサシバをモチーフにした鳥形の展望台の目は伊良部町の町章が使われています。
よく見るとまだまだ旧町村の遺構は残されており、今のうちに記録しておかないといつ失われるか判らない、危機遺構ともいえます(そんなことを思っているのは自分だけでしょう)。


【関連石碑】
第80回 「旧日本軍慰霊碑」 忠魂碑 陸軍大将鈴木壮六」

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