6月は「慰霊の日」月間として4週に渡って忠魂碑を中心に戦争関連の碑を紹介し、一応のシリーズを完結させる予定でしたが、いずれはやっておかねばならない石碑があるのは承知していましたので、延長戦として今回取り上げることにします。
この歌碑は高澤義人が宮古島での記憶を詠ったものです。
「補充兵われも飢えつつ 餓死兵の骸焼きし宮古(しま)よ 八月は地獄」
この短歌は1981年8月2日の「朝日歌壇」で第一席選者の
近藤好美により選ばれました。また、この年の「朝日歌壇」秀作十首にも選ばれました。
高澤義人は1913(大正2)年に、現在の福島県東白川郡矢祭町(矢祭村が誕生するのは戦後の1955年、1963年に町制)に生れました。1943(昭和18)年に補充兵として召集されます。朝鮮、満州を経て南方転用となった師団とともに宮古島へやって来ます。資料では軍の所属がはっきりしませんでしたが、碑の建立されている野原の集落近くに駐屯していたと考えると、
歩兵第三聯隊なのではないかと思われます(高澤は戦後、千葉県松戸に在)。
この壮絶な歌にも詠まれているように、地上戦がなかった宮古島では直接的に戦争で亡くなった戦死者数よりも、飢えと風土病(マラリアや
フィラリア)によって亡くなった方の方が多く、高澤は衛生兵として遺体を荼毘に付すことを担当していたようです。
いわば火葬をになっていたといいますが、別に斉場があったわけではなく野焼きに近い状だったようです。
実際、島の戦跡資料を読むと、少し大きな部隊が駐屯していた集落の外れの方には、普通に焼き場があったと記録されています。現況は土地改良がされていたりして、過去の情景を知ることが出来るところはないようですが、生と死の世界観がとても近い沖縄という土地柄ではありますが、こういう生々しい逸話を聞いてしまうと、少しフィールドワークをためらいたくなります。
歌碑の裏には、当時の高澤が詠んだ短歌がもう二首ほど記されている。
「犬、猫、みな食いつくし熱帯魚に極限の命つなぎたる島」
「餓死兵を夜毎井桁に重ね焼くわれに一粒の涙なかりき」
そして1998年。宮古歴史教育者協議会の招きで50余年ぶりに、高澤は来島して詠んだとされる二首も書き添えられている。
「餓死兵焼きすてし具体語れと招かれて宮古歴教協に馳す夏の生き残り兵」
「敵襲苛烈の惨蘇る老兵に今も母のごとああ野原岳」(原文のまま)
この碑は戦争の記録をとどめ反戦平和を願って、「高澤義人歌碑建立実行委員会」により2005年8月15日に建立されました。
そして2011年1月28日。高澤は97歳で亡くなりました。
行雲流水(宮古毎日新聞 2005年6月15日)
~句碑が建立された時のコラム
「高沢歌碑」(行雲流水)2011年2月8日(火)
~逝去後の追悼時のコラム
高沢さん、安らかにお眠りください(2011年9月1日)
~追悼を扱った個人Blog。高澤の画像あり。
そしてもうひとつ。
この高澤義人の句碑のすぐ隣りには、「アリランの碑」があります。
いわゆる朝鮮人慰安婦の碑というものです。
かつての野原の慰安所は、石碑から南西に150メートルほど行った、松林の残る草むら(痕跡はない)にあったそうです。この野原周辺は宮古島の軍の要である28師団の司令部(野原岳北側)があり、陸軍中飛行場もあったことから、相当な爆撃や機銃掃射を受けていたにも関わらず、住民と軍が隣り合わせで暮らしていました。
慰安所の界隈も、兵舎や掩体(戦闘機を敵から隠すための粗末な駐機場。米軍の航空写真では丸見えであった)があったり、特攻隊の宿舎(台湾方面からやって来て、宮古を最後に飛び立ってゆく兵士のためにあてがわれた赤瓦の民家。奇しくもそこは某宮古のアーティストがスタジオとして使っているあたり)や、朝鮮人工夫(もしかすると
特設水上勤務第101中隊の一部かもしれない)の鍛冶屋(修理屋)集団があったといわれています。
戦後72年が経過し、戦跡の遺構は開発によって失われ、人の記憶もゆっくりと喪失してゆく中で、ありのままを記録をすることの重要性を再認識させられました。