すでに
4回目(通算5度目)の宮原学区の井戸系石碑シリーズです。
いいかげん飽きてると思いますが、もう少し続きます。いや、続けさせて下さい(実質的には石碑紹介から逸脱して、井戸の紹介であったたり、地域の紹介であったりするのは、広げすぎたフィールドワークの弊害ではあります)。
今回紹介するのは、先週の
瓦原井の碑に続く出落ち編です。その、まあ、いや、ホント、すみません。ハイ…。
こちらが伊良部井(イラブガー)の石碑です。明らかに上半分、いや、それ以上が欠損しています。碑面には薄っすらと字のようなものが書いてあるように見えますが、まったくもって読み取ることは出来ません、。以上が伊良部井にまつわる石碑です。
って、終わってはいけませんね。
伊良部井のある場所ですが、元・宮原小学校の西側の畑の中にあります。サトウキビが茂っているとちょっと見えにくいですが、畑の脇の道路から数メートルほどの位置にある掘り抜き井戸です。井戸口には転落防止用の金網が設置されていますが、井戸内は綺麗な石積みが見られ、そこそこに深い水面もはっきりと見ることかできます。折れた石碑は井戸の拝所のイビも兼ねているのか、泥で汚れた湯飲み茶碗ひとつ転がっています。いつぞやかに拝まれた形跡が見られます。
この伊良部井の命名については一切資料もなく、詳細については判っていませんが、由来としては戦時中(昭和19年頃)、朝鮮人軍属によって掘られたものと云われています。ちなみにとびとり会館(公民館)の東方50メートル付近に、当時は慰安所もあったそうです。
また、戦後はこのムトゥヤー地域の人々や、山北分教場の子どもたちが使っていたそうです(山北分教場については
コチラ)。
こうしたことから伊良部井は、主に戦中から戦後にかけて利用された、ムトゥヤー地域南部の井戸と云えます。
話が前後しますが、ムトゥヤー地域は周辺地域から移転して来た人もあったようで、古集落は今の集落よりももう少し西にあったと考えられているため、現在の集落位置はそう古くはないようですが、漢字では「元屋」と書くのではないかとという推察があり、語感からもどことなくうなづける気もします。また、古くはこの地にブンミャーもあったとされてることから、ムトゥヤーは地域の中心であったのではないかと目されています。
ちなみに、ぶんみゃーとは人頭税として納める、貢布(宮古上布)の元になる苧麻から糸の原料となるブー(繊維)を績む作業場のことで、多くは集落の中心にある村番所に併設されていたことから、村番所のことを
ブンミャー(ブー績み屋)と呼ぶことがあります。ただ、ブンミャーはブンミャーであり、村番所のことではないのでそこは注意が必要です。
そんな古集落のムトゥヤーを代表するの井戸が残されています(イラブガーが掘られたのは戦中なので、それよりも圧倒的に古い)。それが集落北側にあるムトゥヤー井です。
道路脇のガジュマルの下、一段下がったところに掘り抜きの形でムトゥヤー井が残されています。よく見ると井戸の周囲には石垣も積まれており、ガジュマルの根っこの雰囲気と云い、おそらくウリガーだったものを使いやすい掘り抜きに作り替えたのではないかと考えられます。
ただ、石碑など来歴を知らせるものが一切ないので詳細は判りません。ただ、明らかにイラブガーよりも趣きがあり、集落の井戸の主役であることは間違いなさそうな貫録です。
ムトゥヤーといえば、元・宮原小学校がありますが、その東側にある放水路には、「んなま to んきゃーん」の連載100回突破特番で書きまくった、
「巨大生物モニュメント of MIYAKO」の延長戦で登場した、いくつもの巨大カエルに、カメやハシビロコウ(のようなモノ)が『生息』していますので探してみてください(ホントに最後は単なるオマケでしたね)。
【ご不要となった資料を譲って下さい】
古い地形図、昔の道路地図、イラストマップ、観光ガイド、パンフレット、私家版の本、市町村史、報告書、紀要、古写真、etc