第154回 「地モリ井戸新設由来」

atalas

2017年09月26日 12:00



井戸にちなんだ石碑シリーズをここのところ地味に地味に続けております。派手さがないのでウケは決して良くないのですが、スルメのようにあとからじわじわとやって来るようです。おかげさまでニッチなネタも150余回も重ねていると、ネット上ではアーカイブスのようにもなってまして、単語によっては検索すると軒並み自分の記事ばかりが上位検索に引っかかる、なんてことが起きるようになってしまいました(若干弊害にもなっていますが、検索引用が楽になった)。
さてさて、今回ご紹介するのはタイトルがちょいと仰々しい「地モリ井戸新設由来」という井戸にまつわる石碑です。

タイトルの通り石碑が建立されている井戸は地盛(宮古島市平良字下里)にあります。
地盛集落は旧平良市の郊外というよりは、旧郡部(上野への入口ともいえる位置。ここでいう群とは宮古郡のことで、五市町村合併で宮古島市が成立し、宮古郡からは町が消滅。多良間村だけのとなったことで、沖縄県内で唯一の一郡一村に)と云ってもよさそうな佇まいの集落でしたが、近年は空港が近いことから、レンタカー屋がいくつも軒を連ねるようになり、空港の目の前にはスポーツ観光交流拠点施設という名のJTA宮古島ドームが建設(今後、サンエーが運営する大型商業用施設も建設予定)されるなど、臨空集落の様相を醸しだしつつあります(個人的には、宮古における真の臨空集落は、旧・七原だったのではないかと思います~七原の霊石)。

【下:目的地の森から飛び出しているクバ。右手奥には空港ターミナルが見える距離】
発展の途上にある地盛集落ですが、まだまだのどかな風景の広がっています。今回の目的の地盛井戸は資料よると、県道190号線と195号線に挟まれた森の中にあると目されています(地図上では耕作放棄地の脇にある道を進むと辿りつけるかのように描かれていますが、現状では道そのものが存在しません)。
井戸は地元の里御獄とみられる地盛御嶽の敷地内に位置しているらしいので、御嶽を探すことが出来れば井戸もおのずと見つかることになるので、古くからある御嶽には必ずと云ってよいほど植えられているクバを探すと、森の中から頭ひとつ飛び出したそれらしきクバを発見。
それを目印(クバは独特の葉で背が高くなるので、どんな山の中にあっても格好の目印となる。これに加えてマーニ≒クロツグとガジュマル。あとはソテツなどがあると、御嶽率が高まります。また湿地を好むクワズイモやダキフが多いと水があることが予測できます)にして御嶽(井戸)への進入路を検討すると、ちょうど刈りとられていた牧草地を横断すれば森に辿りつけそうだと判断して、早速突撃することにしました。

【左:画像中央、木々の隙間から、ますっぐに天に向かって伸びている、目印となったクバ】
【右:久場のすぐ脇。無数の根を伸ばす、ガジュマルの祭壇と思しき場所】

牧草地を横断し、うっそうとした森(藪)の中に分け入ると、天に向かって一直線に伸びるクバの元にたどりつきました。そのすぐ隣にはたくさんの根を生やしたガジュマルが鎮座しています。根元に畏部(イビ≒拝所にある石)や香炉があれば確実(祭祀に使う、ぐい飲みや平香、茶椀などが散乱していることもある)ですが、それを確認することは出来ませんでしたが、いかにも御嶽らしい雰囲気が漂っています(資料にも北側にあり南を向いていると記されていた)。

ということは、もう地盛井戸は近いと予想されます。
そこで御嶽の周辺をうかがって見ると、少し離れたあたりに木々が生えていない空間がありました。それに気付いた瞬間、そこに大きな窪地があることを感覚的に理解し、井戸を発見したことに興奮を覚えました。そこには想像を遥かに超えた大きさの井戸。降り井(うりがー)があったのです。

南側に口を開いた降り井には立派な石組みの階段があり、井戸の底面へと続いています。およそ10メートルほど石段を下り、広々とした円形の底面に降り立ちます。広場の中心には掘り抜き型に成型された井があり、縦穴はなかなかに深く、その奥底に水面が見えました。円形の底面広場の東側には、壁面に沿って長方形の大きな穴が掘り下げられていました。用途は想像ですが、これは汲み上げる飲料以外(洗い物・水浴か?)の利水用の水槽(桶)でしょうか(大和井の一番奥底にあるような穴)。また、もうひとつ北側にも小さなの穴が開いていました。少し崩れているのか、埋めて隠そうとしているのか、判別に困惑するような造りで、小さな穴から暗がりを覗いてみると、どことなく人工的な雰囲気にも見え、もしかすると壕のような感じにも見えます(地盛の界隈には海軍飛行場の関連施設≒探照灯があったとか、施設系部隊がいたなどの情報もある)。ま、こちらの謎解きはまた別の機会として、本稿のメインである石碑の方に取かかることにします。

【左:地盛御嶽の際から空間を覗いたら、見えて来た大穴・・・降り井がありました】
【右:南側の石段から井戸の中を望む。右端には葉に紛れて石碑も見えています】


石碑は降り井の入口右手、石組みの上に建立されていました。あまり大きなものではありませんが、薄っすらと掘り込まれた文字(漢文)がびっしりと書かれています。
左端のふちにタイトルにも使った「地モリ井戸新設由来」とあり、続けて五行ほど由来の部分が記されています。本来ならちゃんと読解をしなくてはいけないのでしょうが、ここはやはり先人の知恵を借りて手短に済ましてしまいましょう。いつものN宗根先生の著作「近代宮古の人と石碑」(1994年)にはこのように書かれていました(感謝)。
地盛七原両最寄りハ飲料水之常ニ困難困り地
盛新城□真伊良皆金両人発起雇大工首里
久場川村新垣三良氏に託シ明治三十三年二月三十日工ヲ起
シタル幾日ナラス潔水湧出同年四月二十四日工ヲ終飲料水
不足ナク永代ノ重宝無比此上困て名付テ地盛井戸ト云フ

【左:見上げるとガジュマルが空に広がっていました。一部、台風タリム18號の影響で崩落しかけています】
【右:枯葉に覆われて少し判りづらいですが、立派な石組の階段があります】


明治33年(1900年)に、首里の久場川村(首里久場川町≒ゆいレール首里駅の北側あたり)の新垣三良という大工に依頼して井戸を掘っています。有名な「上総掘り」の技術が確立したのは明治29(1896)年頃らしいので、まだまだ未開で土質や自然条件も異なる離島のこの時代の井戸掘りはどんな方法だったでしょうか。宮古のこれよりも古い時代の井戸は、自噴している湧水や、洞泉などを改良しているものがほとんどなので、この井戸が掘られたのは宮古でも比較的古い時代の物なのだそうです。そう考えると、ますます気になります。


【左:東側の壁に沿って一段低く掘り込まれている長四角の穴。用途はなんだったのでしょうか?】
【右:北側に空いている謎の穴。隠してあるようにも見えるので、こちらも何に使用されたのか気なります】


また、石碑の背面には「両最寄人民一同相義掘井戸」と刻まれています。
この井戸を使っていたのは地盛とかつて西隣にあった七原の集落の人たちであったことが読み取れます(七原の集落も、大正期に自分たちの集落用の井戸を掘りますが、海軍の飛行場建設のために土地が接収され、そこにあった集落が消失してしまいます)。

近代とはいえ100年を超える歴史がそこにはあり、とても素晴らしい造形をした降り井なのですが、特に文化財の指定もされていませんし、御嶽も含め拝む人がいないこともあって、やや荒れるに任されているあたりはとても残念でなりません。きちんと整備すれば島の文化資源として役立ちそうなんですけれどね(特にこの界隈は割りと近い距離に、色々と見どころが詰まっているエリアなので)。


【参考資料】
「近代宮古の人と石碑」(仲宗根将二 1994)
「平良市史 第9巻 資料編7 御嶽編」(1994)
「平良市文化財分布図」


関連記事