第153回 「桃之川」

atalas

2017年09月19日 12:00



井戸シリーズもちょっと息切れ気味(連載周期と石碑の裏取り調査が追いつかない)ではありますが、無理が通れば道理が引っ込むと思われますので、無理矢理にでも進めておくことにします。
さてさて、今回ご紹介する石碑は、県道76号線“城辺線”の比嘉入口にある桃之川の改修を記念した石碑です。

石碑は道路脇、畑側の部分を嵩上げされた土台の上に乗せられた2枚の石碑と、謎の不思議な形をした石。そして香炉が安置されています(水の神様に向けた平香なので火はつけられていない)。
どうも小さな石碑が元々あったもののようで、表面の文字がかなり劣化しており刻まれた文字をはっきりと読み取るとは出来ませんが、どうやら大きな方に同じ内容のことが書かれているようです。

まず、碑の中央には「桃之川」と井戸の名が記されています。次に右側は「大正五年建設」とあります。そして左側にも文字があります。「昭和九年秋改築」と書いてあるのでしようか。こちらは井戸名や大正五年の刻字のように墨がハゲてしまっており、やや判読が難しくなっています(再チェックの結果移ではなく、秋でした)。

大きな石碑には小さな石碑と同じことが書いてあるのだとしたら、井戸は大正五年に掘削され、昭和九年に移改築(井戸を移動した?)したことが書かれていることになります。
では、この大きな石碑はいつ作られたものなのでしょうか。特に石碑の表面には書かれていません。早々にネタをばらしてしまうと、石碑の裏面に「平成七年十二月改築」と、三つ目の年代が記されており、掘削、改修、再改修がされたことが確認できます。

時系列に沿って考えると、昭和九年の改修は、恐らく戦時中に比嘉入口から大瀬原≒長北への道が建設されているので、この一環として改築された可能性が考えられます(この時期、現在の直線的な幹線道路網の一部が、軍用道路のような形で拓かれ、Under construction≒工事中と戦後すぐの地図に書き込まれています)。
また、平成七年の改修で、石碑が現在のような形状になったことが推測できます。理由はただひとつ。この石碑が指し示す井戸・桃之川そのものが、拡幅された歩道の中に組み込まれていますからです。
石碑と一緒にある謎の石。こちらも気になりますが、用途は不明です。自然石ではなくくびれたような部分は人の手で作られているようにも思えます。もしかすると釣瓶の重石であったかもしれません(あくまでも想像です)。

ネタ的に情報と資料が少ないので、桃之川について書けることがほとんどないのですが、少しだけこの井戸について紐解く手がかりとして、石碑の背面に「元比嘉井」と記されていることです。
元比嘉とは現在の比嘉集落以前に村があった場所で、通称「下の島」と呼ばれているこの井戸の周辺のことのようです。ただ、これは「宮古島在番記」に記された1862年のことで、元比嘉は土地が悪く風土病(マラリア)が蔓延するので、高台にある現在の比嘉(上野嶺)に移転したのだそうです。

確かにこの界隈は現在の加治道付近を中心に、周囲を低い山地で囲まれた底地(低地)にあたり、雨が降れば畑が浸水してしまう場所であったことから、昭和8年に瑞福隧道が作られます(現存する排水トンネルで史跡に指定されている。尚、この隧道構築に県から派遣された技師が、秋田県人の真木太郎という人物なのですが、いったい何者なのか現段階では謎に包まれたままなので、こちらも気になります)。これに連なる排水路が周囲には張り巡らされており、城辺中央クリニックの裏手で一本に合流してトンネルへとつながり、浦底漁港まで排水されています。

それでもこの界隈は大雨などが降ると畑に水たまりが出来るほどの地域で、特に加治道南部は微高地に人家が寄り添うように建てられており、わずかな高低差を見逃さずに暮らしている様を確認することが出来ます。
このことからも判るように、元比嘉界隈は風土病(マラリア)を媒介する蚊の発生する湿潤地であったことがうかがい知れます。
ちなみに当時の元比嘉の人々にとって風土病は悪霊の祟りだとして、魔除けの獅子(牡牝二体)とパーントゥの面(牡牝二枚の鬼面)を作り、無病息災の祭祀として執り行っていたのだそうです。しかし、いつしかパーントゥの面は紛失し、祭祀も二十日正月の獅子舞として残るだけとなってしまいました(けれど、獅子舞の中に他地区の獅子舞の祭祀では見かけない、野原のパーントゥ≒サティパロウによく似た行事が残っているのは、比嘉のパーントゥの名残ではないかと想像します)。

かつては集落が移転し無人化(したかどうかははっきりしないが、主集落は高台に移った)するも、土地改良が進んだことによって、元比嘉のエリアにも定住されるようになり、水利を求めて桃之川を掘削した。という流れなのではないでしょうか。そして集落域も広がった比嘉そのものも、昭和5年には加治道を分区します(大字は比嘉のままかわらず)。

結局のところ井戸の桃之川については、コレといったものがだせなかったのですが、妄想的命名の謎解きをひとつ。
桃→もも→百と読みかえると、百はたくさんという意味があるので、水量の豊富な井戸ということになる?。でも、それでは上野嶺の比嘉集落にある水量豊富な比嘉大川(うぷかー)のような呼び方になるだろう・・・。さすれば、百≒たくさんの川。つまりそこらじゅう川。氾濫しているという意味なのかも知れない。けど、どちらといえば推してみたいのは、桃はやはり「桃李もの言わざれど下自ら蹊を成す(とうりいわざれどもしたおのずからけいをなす)」。『桃や李何も語らないが、実がおいしいので人が集まり、その下には自然に道ができる』という桃李の桃につなけで、「甘くて美味しい水」なのでたくさんの人が集まる井戸という、ファンタジー要素満載の説を勝手に唱えてみる(絶対に違うと思うけど)。

最後に、比嘉における上水道の供用開始は、宮古島用水管理局宮古島上水道組合が設立された、1964年から一年後の1965年4月30日となっています。

【関連石碑】
第6回 「明日を拓く」(県営かんがい排水事業完成記念碑)
第121回 「比嘉財定先生之像」

【参考書籍】
比嘉自治会創設150周年記念誌(宮古島市比嘉自治会 2012年)


(20170920 改訂)

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