第152回 「ヒダ川工事建設記念碑」

atalas

2017年09月12日 12:00



細々とこそこそと続いている井戸系石碑シリーズ。今回は西原のヒダ川の石碑です。川だったら井戸じゃないだろー!っとお怒りになる貴兄もいらっしゃるかと思いますが、宮古口で井戸・泉のことを「カー」いいますが(地名など呼称を含んだ井戸の固有名詞の場合はガーと濁りますが、一般名刺で示す際はカーと濁りません)、そもそもの語源は「川」であり、水利を得られる場所の意味として広く充当され、井・泉・川などさまざまな当て字が乗せられているにすぎません(時代や文献によっても揺らぎがある)。このヒダ川もまた井戸でこそありませんが、こんこんと水が湧き、人の営みには欠かせない場所なので仲間に入れてあげてください。

こちらのヒダ川。場所は大浦湾の最深部。西原集落の北端、大主神社(ウハルズ御嶽)のそばにあります。県道83号線を西原から大浦方面に進み、左手のお墓群が見えてきた手前を左に入ります。
このお墓群の左側に荒れた細い道が残ってるのですが、これは旧県道部分。ちょうどこのあたりから左手に大浦湾がはじまり(藪でほぼ見えない)、山側は大浦と西原を分ける丘脈が海近くまでせり出していて、平地が少なく往来の難しい街道の難所となっていましたが、近代土木技術によって現況に改修され、かつての旧道としてわずかに痕跡として残っています(旧道はお墓の脇から藪を突っ切って、再び県道へと合流していますが、車輛での通行は困難)。

文字通り話の道筋が脇にそれてしまいましたが、本道へと話を戻しましょう。
県道からそれて脇道に入った先にある古い鉱山(採石場)の向かいが、ヒダ川への入口になります。ここは10数年前に遊歩道などがきちんと整備されたのですが、湧水に親しめる場所でありながらあまり知られておらず、訪れる人も少ないことから野放図に草木が茂り、時期によっては遊歩道が藪に閉ざされて川までたどり着けないこともあります。

遊歩道を下ってゆくと、あっという間に大浦湾の最深部に湧く、ヒダ川に到着します。
湧水の脇にある石碑はコンクリート製で、湧水周辺の水槽を設置した工事の完成を記念して建立されたものです。「1955(昭和30)年8月5日竣工」と石碑には刻まれています。
興味深いのは石碑の背面と側面に書かれている関係者の記銘です。通常、こうした集落にとって重要な水源の改修などは、集落が主となって行われることが多いのですが、このヒダ川の改修工事の主催は婦人会となっていて、後援に西原區(集落の意)、女子●年会、漁業協同組合が名前を連ねています(●は字がつぶれて読み取れない)。
また、功労者として婦人会長と副会長など、当時の婦人会の執行部の方々の名前も列記されており、各戸に水道設備の普及が整うまで、水汲みの役割を担っていた婦女子の皆さんが、なんとか使いやすく便利にしたいという気持ちが、整備事業としてこのような形に結集したのではないかと思われます(碑の背面にはびっしりと寄付者名も刻まれている)。
逆説的に説いたら、このように積極的に行動して主導的に活躍する姿勢ということは、もしかすると西原の女性の発言力がとても強いということなのかもしれません(あくまでも想像ですが)。

【こんこんと湧く、ヒダ川の水源】

そうそう、石碑の大元であるヒダ川の湧水ですが、コンクリートの水槽に囲まれた奥の岩の裂け目から、今もこんこんと湧いています。水量もかなり多く、カーとしてはかなり上等な部類と思われます。
立地として大浦湾の奥、入江状になった一番奥なので、地上に降った雨水が琉球石灰岩の層を通り、島尻マージ(水を通さない粘土層)の上を流れる地下河川(水脈)の出口だと考えられます。ちょっと地形を追いかけて眺めてみると、市営西原団地が建つ小さな丘の北側の麓にある怪しいものがあることを思い出した。こちらも水によって作られる地形なので、この低い丘脈に沿って福山の方から続いていると確信しました(赤色立体地図でも深くえぐられていることがよく判り、この丘によって、隣の成川のサガリバナのある久浦に注ぐ河川とは水脈が異なることも確認)。
ところで、怪しいアレですが、このあたりはかつての集落の外れ、いまも周囲にはお墓があるとということは、ですよね。ハイ、これ以上の言及は避けておくことにしておきます。

【左:ヒダ川の入江。湾曲しているので大浦湾を見渡すことは出来ないが、満潮時は湧水のあたりまで海水が満ちて来ます】
【右:遊歩道の橋。右手が鉱山側の入口。左手は県道まで遊歩道が続き、県道端には数台、車が停められるスペースもあり用意されていますが、整備状況が怪しく、使用可能かどうかは訪れてみないと判りません。2014年のストリートビューでは停めることは出来そうです】


最後におさらいとして。しれっと冒頭から「西原」と書いていますが、よくこの地域は「西辺」と総称していますが、厳密にはイコールではありません。
なぜなら「西原」と呼ばれる地域は、誇り高き池間民族の伝統が息づくミャークヅツを行っている集落(主に佐良浜からの移民と云われている)を示しますが、「西辺」と書く場合は周辺の西原、大浦、福山の3地区を総称する時に使われる地域名だからです。明確な例としては、西原集落の中にある小中学校は地域名の西辺を名乗っていることでご理解いただけるのではないでしょうか(かつての西辺小学校は現在の狩俣小で、当時は大浦に西辺小の分校があり、火事によって狩俣の西辺小が焼失。大浦分校を西辺小の本校に改称し、その後現在の地に移転します。このことから平良の北方の全域が、かつては西辺と呼ばれていたことが判ります。また、平良の北≒ニスの方、辺鄙なところから、転化して西辺とになったという説があります)。
また、大浦は伝承によると与那原軍に滅ぼされるまでは、渡来した唐人が治めていた城跡も残る古い集落があり(トウジンガー≒唐人井という井戸もある)、後に再興されて現在の集落となりました。福山はかつては島尻地区の一部だった散村地域を再編して作られた新しい集落といわれています(かつての小さな集落の痕跡となる井戸や御嶽も未だ残っている)。このようにそれぞれに集落の成り立ちが異なっていることも付け加えておきます(非常に簡単に説明ですが)。

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