えー、「んなま to んきゃーん 」の「慰霊の日」月間も三週目となりました。今週末はいよいよ慰霊の日があります(県民の祝日扱いでなので、国以外の公官庁系はあらかたおやすみになります)。そして忠魂碑シリーズも三週目。海を渡って伊良部へと向かいます。
伊良部の忠魂碑は県立伊良部高校の西側、県道90号下地島空港佐良浜線を国仲集落に向かう右手にあります(公園風な緑地の中)。低いコンクリートの壁に囲まれた忠魂碑はガジュマルの老木に抱かれて建立されています。
宮古にある忠魂碑の中では最も古く、1914大正3年5月に建立されています。宮古島市総合博物館で開催中の「平和展」(2017年5月19~6月25日まで開催)にも紹介されていおり、初代伊良部村長の国仲寛徒の揮毫と云われているそうです。
また、この忠魂碑の隣りには慰霊之塔が建てられています(位置的には慰霊之塔が緑地の正面になるので、こちらがメインと思われます)。この慰霊之塔は1963(昭和38)年10月18日に建立されています。
慰霊之塔というだけあって、全高はかなりの高さになっています。低いコンクリートの囲いの中央にある、大台座への階段を5段ほど登った一段高い場所に花ブロックの囲いの中にあります。この大台座の上に建碑用の台座が据えられており、台座の上部には戦没者の名前を記した芳名板を三面に貼ったコンクリート基礎のような構造材があり、「慰霊之塔」と書かれた塔はそのさらに上に据えられています。よくよく見てみると、かなり華美なスタイルの慰霊塔になっていることに気づかされました。
慰霊之塔の芳名板を眺めてみると、兵役について官位のある人もいますが、軍属がとても多いことに気付きました。軍属とは軍人でなくて、軍隊に雇われて勤務する者なので、あくまでも一般の人になります。島で軍に駆り出され、犠牲になった方ということなのでしょうか。
忠魂碑ではなく慰霊之塔ですが、太平洋戦争ではない戦争で亡くなっている方の名前が、ふたりほど芳名板に書き記されていました。
上等兵 上里金三 明治丗十七年 サラハマ 日露戦争の時
上等兵 下地幸睦 大正七年 伊良部 満州事変の時
と書かれており、本来なら忠魂碑の方に記されるべきお名前なのかもしれません(伊良部の忠魂碑は大正3年建立なので、大正7年の時点では建てられてしまっていますが、忠魂碑という意味合い的に、という意味です)。
ちなみに、日露戦争は1904年~1905年。宮古では「敵艦見ユ」の「久松五勇士」が深く関わりのあることで知られています。皮肉なことに日露戦争が始まる前年の1903年は、宮古から廃止運動が始まった「人頭税」が廃止された年であり、先島における租税法が改まった結果、人頭税によって徴兵を免れていた先島の人々も、徴兵対象となったので上里金三さんはもしかすると最初の徴兵世代かもしれません。
また、満州事変ですが、勃発したのは1931年で、この事変により満州国が建国される流れになりますが、満州事変が発生した1931年は昭和6年なので、下地幸睦さんの大正7年とは符合しません。尚、大正7年(1918年)は第一次世界大戦が終結した年であり、この時、日本は中国大陸で戦争をしていましたから、もしかするとこれと記憶が混同しているのかもしれません(元号の単なる記述ミス?)。
宮古島市内の旧市町村、城辺、平良、伊良部の忠魂碑を見て来ましたが、実は下地町はも忠魂碑は存在しており、すでに「謎の石碑-未解明ファイル-」の
第80回「旧日本軍慰霊碑」のひとつとして紹介しているのでした。下地の忠魂碑は学問の神様としても有名なツヌジ御嶽(下地神社)に、鈴木壮六の揮毫によって昭和7(1932)年に社殿改築とともに建碑され、建立当時は児童も動員して盛大に祝賀会を行ったと下地小の沿革史に記録されています。しかし、「謎の石碑-未解明ファイル-」でも取り上げた通り、忠魂碑の現状は何者かに碑の中ほどでバキっと折られ無残にも破壊されているのです。
各市町村でブームのように建立された忠魂碑ですが、上野には存在しません。なぜならこの忠魂碑の建立ブームであった大正末期から昭和初期の時代には、上野村がまだ存在していなかったからです(下地からの分村は戦後の1948年/昭和23年)。
一見、なんの関係もなさそうな市町村の変遷から、忠魂碑の小さなトリビアに気づかされたりして、たかが石碑と侮れないから面白いです。
次週、「慰霊の日」月間の最終回は、二重越に挑みます!。
【関連石碑】
第80回「旧日本軍慰霊碑」
第84回 「国仲寛徒頌徳碑」
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
第116回 「久松五勇顕彰碑」
第138回 「忠魂碑(城辺)」
第139回 「忠魂碑(平良)」