先週の友利の
「道路開鑿紀念碑」に引き続き、道路モノです。道路系もマニアの多い業界ですが、ぶっちゃけ宮古的にはあまり萌え切れる点がありません。山深い訳ではないので旧道はあっても廃道になることもなく、指定を外れて格下げになっているくらいで、割と普通に残っていたりします。今回はそんな話もちょっと織り交ぜて…。
今回紹介するのは新城集落の入口にひっそりと建っている石碑です。
以前からこの石碑の存在については知っていたのですが、石碑前面には微かに「記念碑」と読める文字しか記されておらず、裏面の碑文に至っては摩耗がひどくて、ほとんど読み取ることが出来ませんでした。いったいこの石碑は何を記念したものなのか、まったく判らずにいましたが、「近代宮古の人と石碑」(仲宗根將二 1994年)の中に、わずかですが記述されていることが判り、ようやくその秘密に迫ることが出来ました。さすが仲宗根先生です。本当に痛み入ります。
それによると碑分は
新城道路改修 大正四年十一月
発起人 高里景親 下地金
与那覇武平 佐平坊
外八名
工事監督員 屋良実
大正四年十一月設立 波平恵相書
と書いてあるそうです。
大正4(1915)年11月の竣工となると、先週の友利よりは少し早く(大正4年11月起工、5年7月竣工)、伊良部の
五ヶ里道(起工は大正3年、4年11月竣工)とほぼ同じ頃に完成していることになります。ただ、三村組合で施工したのは、平良の西里から城辺の福里(県道73号)までのようなので、福里から新城までは別途施工と考えられます(五ヶ里道も伊良部村の直営公共工事)。
これといって詳細な情報は得られていませんが、五ヶ里道は村民総出で施工にあたっていますし、砂川線(友利の道路開鑿紀念碑)も、字の青年会が協力しているので、新城へ向かう道もそうした労力をもって改修したのかもしれません。
大正末期に測量された地形図では、ほぼ現在の形に近い道路が出来ています。福里から現在の国道390号となるルートは、皆粉地(みなこぢ≒現在の字では新城)から七又(現在の字では保良)を経て保良へ。また、途中で分岐して、新城を経て割目(後の吉野集落。現在の字では保良)を結ぶルート(現在の県道199号)が確認できます。
はい、ここで気づいた人~!。きっとアナタは地図マニア、道路マニアな方ですね。
もう一度よく地図を見てください。福里の集落から新城への分岐までの道路線形が、現在の国道390号とは異なっていることが見てとれます。今ならば福中を過ぎて左にカーブしながら急勾配を下り、やがて右カーブに変化して坂を下ります。これが西皆粉地のナンコージ坂と呼ばれる区間で、新しい地図を見ると、現道の北側に大きく湾曲した旧道が通っています。カーブはとしても大きいですが勾配は緩やかなので、登りやすさを優先したのでしょう。
ナンコージ坂が完成したのは1970年代と思われる(1963年の航空写真にはなく1977年のものにはあることから、復帰のタイミングではないかと)。
尚、ナンコージ坂の語源ですが音感から、「難工事」と思われているようなのですが、この場所の字は西皆粉地(にす-んなくず)といい、「西」は本来、宮古口で「北」を意味する「ニス」を西と書き換えてしまったものと考えられます(南側に皆粉地集落があり、方角としては北に位置している。この手の例は西更竹など多くの事例があるが、宮古の北西問題はとても根が深いのでひと言では言い表せない)。そして皆粉地は「んなくず」と読むので、「んなくーず」→「なんくーず」→「なんこーず」→「なんこーじ」と聞こえて来たことからの当て字変化なのではないかと推察してみました。
旧道を改めて走ってみるとカーブは大きいものの確かに勾配は緩やかで登りやすくありました。この旧道の途中に「不法投棄」を諫める立札があります。なんでもここにはかつて穴があいていたらしく、ゴミを投棄して穴を埋めてしまったのだといわれています。
しかも、この穴はかつて嶺の上までつながっていたといわれており、穴の上部はツガマキィ御嶽のリュウグウの遥拝所に位置しているそうです。確かにイビの向こうに窪地があり、そこには深そうな暗闇が口を開けています。
地図で位置を確認してみると、確かに旧道の崖下の上にあたりますが、短く見積もっても40メートルくらいの距離があり、洞穴だとしたらさぞ楽しそうな穴だったのではないかと妄想しました(下の埋めた穴の位置が未確定)。今となってはその真実を知るすべはありません。流石に神域の穴に潜る勇気もありませんし(しかもかなり滑りやすそうな雰囲気の縦穴)。
尚、この嶺のある丘脈は福里の背後地としてナンコージ坂から城辺図書館付近まで、とても細長い公園として整備されており、森の中を通る遊歩道はあるのですが、これまで人の姿を見たことがありません(城辺小裏手のあたりは、
巨大生物モニュメントのタコの滑り台があります)。
おわりに。
この新城への道路改修の発起人に名前が挙がっている高里景親(1887-1961)は、新城の出身で城辺村議や宮古郡会議員を務めた政治家。久々の次週予告。来週はこの人物を追いかけてみたいと思います。
【関連石碑】
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
第123回 「道路開鑿紀念碑」