第104回  「歩兵第三聯隊戦没者慰霊碑」

atalas

2016年10月11日 12:00



野原集落の背後地にある野原岳周辺は太平洋戦争当時、陸軍第28師団(豊部隊)の本拠地(司令部)でした。
この28師団は沖縄に迫りくる連合軍の上陸を阻止するために動員されました(本島もしくは宮古に来ると予想して陣をひいたものの、実際には本島へ上陸したため、宮古では地上戦が行われませんでした)。
この28師団は歩兵第3聯隊、歩兵第30聯隊、歩兵第36聯隊を中核として、満州で組織され南方に転用されました(ただし、36聯隊は大東島守備であったため宮古には来ていない)。

特に第3聯隊は野原に本部を置き、南地区(野原岳の南西方向)。おおむね下地と上野)を守備地域として展開しました。こちらの碑はその「第三聯隊戦没者慰霊碑」になります。建立されている場所は元みやこパラダイス(2011年閉園)から野原集落へと抜ける道と、自衛隊分屯地の正門前の通りが交差する角、金剛禅寺の入口そばといえば判るでしょうか。
余談ですが、この金剛禅寺はかつて平良市街、独逸皇帝博愛記念碑が建立されている場所にありました(碑も境内にあったといわれています)。元旅館の隣家の駐車場が改修される以前は、金剛禅寺の跡地を示す標柱が建てられていました(標柱が喪失したとこで、跡地がまたひとつ判らなくなりました)。

由緒ある歩兵聯隊だけに慰霊碑はかなり立派で、戦没者451名(なぜか439名から書き換えられている)の芳名も刻まれています。由緒あると書きましたが、どのくらい由緒があるのかというと、帝国陸軍の創成期にまでさかのぼります。
帝国陸軍は明治維新後の1871(明治4)年に、薩摩・長州・土佐から徴集された御親兵を祖として組織されますが、国民皆兵制を推進して1874(明治7)年に徴兵令を発布します。そして東京鎮台(後の第一師団)に初めての徴兵による兵卒が入営することになり、組織改編を行い歩兵第3聯隊が発足します(当初は第1軍管区東京鎮台の所属)。

1877(明治10)年、西南戦争に従軍します。八代の日奈久、宇土の戸口浦に上陸して熊本南部の戦闘に参加しています。西南戦争の終結後、江戸の残り香のような士族中心の軍隊(南西戦争の官軍の中心は士族だった)から脱却し近代化をはかり、1888(明治21)年に鎮台を師団と改める組織改革が行われ、東京鎮台は第1師団と改められます。
傾国する大日本帝国日は、1894(明治27)年の日清、1904(明治37)年の日露と立て続けに戦争を起し、歩兵第3聯隊はいずれの戦争にも従軍します。

そして時は移り、1936(昭和11)年。青年将校らによるクーデター未遂事件、「二・二六事件」が発生します。
この事件で首魁として処罰された野中四郎大尉は、歩兵第3連隊第7中隊長でした。他にも主要人物として死刑に処された、歩兵第3聯隊第6中隊長の安藤輝三大尉や、坂井直中尉、高橋太郎少尉。また、無期禁錮処分とされた麦屋清済少尉、常盤稔少尉、鈴木金次郎少尉、清原康平少尉らも第3聯隊の所属だった(2・26事件慰霊像)。
またクーデターの第二次目標のリストの中には、一木喜徳郎(当時は枢密院議長)の名前があった。
一木は内務省時代の1894(明治27)年に沖縄を訪れ、旧慣制度の実態調査を行い「一木書記官取調書」をまとめた人物。これは中村十作ら宮古島から赴いた請願団の陳情によって実施された調査で、この成果によって人頭税廃止への筋道がひとつ加わった(「一木喜徳郎の自治観と沖縄調査」 第62回 「顕彰碑(城辺)」)。

二・二六事件後、第1師団のまま歩兵第3聯隊は、満州国斉斉哈爾(チチハル)に移動。事件以前から不穏分子を遠ざける計画で満州駐屯が予定されていたらしい。

1939(昭和14)年。満蒙国境線を巡るノモンハン事件が勃発し、これに参加するも、帝国陸軍(+満州国)はソビエト軍(+モンゴル)に敗れます。
1940(昭和15)年、歩兵第三聯隊は第1師団から第28師団へ所属が変更になり、師団の中核となる歩兵第30聯隊、歩兵第36聯隊とともに、1941(昭和16)年に、チチハルからハルビン近郊へと移駐します。
この後、共に宮古島へと転戦することになる30聯隊は新潟県高田を発祥とする聯隊で、現在も陸上自衛隊が駐屯しているこちらも由緒ある聯隊。ちなみに高田(市)は現在、直江津市と合併して上越市となっていますが、人頭税廃止の中村十作の郷里もまた上越市であるから面白い(上越市板倉区稲増。高田の東方近傍にある)。
石坂准尉の八年戦争

長いです。ここからやっとやっと沖縄行きです。
ですが、その転出は予定外だったようです。なぜなら第28師団はそもそも雪に強い(30聯隊は新潟高田。36聯隊は福井県鯖江。3聯隊は東京だが、一部は新潟新発田や群馬高崎が発祥)対ソ戦に対応させる目的で部隊編成されていました。
ところが、沖縄へ輸送中だった独立混成第44旅団と独立混成第45旅団が、米潜水艦の雷撃を受け、多くの戦死者と速射砲やトラックなどの重装備を喪失。部隊の大半が沈没してしまいます。
それにともなって第28師団の沖縄への転用が玉突き配置で決定されます(尚、独立混成第44旅団は後に再編され、一部は八重岳に陣地を構築し後にゲリラ戦に移行して終戦後まで戦い続けます。また、伊江島守備隊に加わった一隊は米軍の猛攻を受け玉砕。そして旅団の主力は首里防衛線の最西翼となる安里地区を担当し、激戦のシュガーローフの戦いに従事します)。

こうして第28師団は満州の第30軍から沖縄方面の第32軍の隷下に移り、1944(昭和19)年、釜山経由で宮古島方面の守備につくのでした(36聯隊は大東島守備へ移動)。また、独立混成第45旅団(球)、独立混成第59旅団(碧)、独立混成第60旅団(駒)、海軍の宮古島警備隊が28師団の指揮下に入り、連合軍の上陸に備えて宮古島に陣を築きます(尚、再編された混成45師団は石垣に駐屯し、後に台湾の第10軍へと指揮が移管されます)。
しかし、連合軍は沖縄本島方面に上陸し、激しい地上戦を繰り広げることになりますが、制海権と制空権をほぼ失った宮古島は、激しい空襲と艦砲射撃はあったものの、上陸されることのないまま島に閉ざされたまま終戦を迎えるます。

改めて島内の第30軍第28師団の守備担当区を紹介しておきます。
南地区(下地・上野) 歩兵第3聯隊 司令部は野原
北地区(宮古空港を除く平良市と伊良部島) 歩兵第30聯隊(添道)と独立混成第59旅団(細竹)
東地区(長間以東の城辺) 歩兵第60旅団(長間)
海軍地区(宮古空港から与那覇湾付近) 海軍宮古島警備隊(袖山~二重越?)
中地区(野原岳の東側から長北海岸。北地区と東地区に挟まれたエリア) 騎兵第28聯隊(師団直轄。佐川根)
このエリアは宮古島の総司令部の背後地となる重要地点なので、師団直轄の山砲第28聯隊や工兵第28連隊、輜重兵第28連隊など、多くの部隊が配置されていた。また、「陣没せる軍役動物を吊ふ碑」はこのエリアに建立されている(第28師団病馬廠)。

1945(昭和20)年8月15日、終戦。第28師団長の納見敏郎中将が沖縄方面の代表(存命している最高位の指揮官だったため)として、9月7日に嘉手納で降伏文書に調印して沖縄戦が公式に終了します。
それより早く9月1日に現地招集の兵は解除され、内地への復員は連合軍最高指揮官の指令によって本島に移送された将校を除き、11月から順次始まり、神奈川の浦賀と広島の似島へ向けて平良港から帰って行きました。

ひとつ奇妙な記述を見つけてしまいました。
それは復員が始まっている12月に、なぜか歩兵第3連隊の将兵7000名が連合軍より沖縄本島への派遣が命じられたというもの。先の指令による将校は5431名で、おそらく処罰対象と思われますが、一般兵士を含む歩兵第3聯隊のみが本島に呼ばれたのでしょうか。いったい何のために、何をしに、どこへ消えたのでしょうか。かなり第3連隊について掘っていったのですが、最後の最後にもう一段さらに下があったというオチないオチとなってしまいました。

最後はオマケです。
第3連隊最初の衛戍地(えいじゅち。いわゆる駐屯地のこと)である東京六本木にありました。現在、その敷地は国立新美術館政策研究大学院大学となっています。そのすぐ隣にある六本木トンネルの上にヘリポートがあります。これは戦後70年を過ぎても都会のど真ん中に残る、米軍の軍用地です(近年、都の緊急時及び災害時のヘリポートとして共同使用もされるようにはなりました)。
六本木と麻布台
六本木トンネルの上は米軍ヘリポートだって知ってた?

【資料】
公文書に見る終戦
第32軍隷下、第28師団、独立混成第59旅団、独立混成第60旅団へのリンクあり。

関連記事