第97回 「大野越開拓記念塔」
今回紹介する石碑は、一周道路(県道83号線)の山川(平良)あたり。白川水源、新斎場、セメント工場、
山川揚陸室の近くといえばもう少し判りやすいでしょうか(一部にマニア向け物件が混入していますが気にしないでください)。そんな県道脇にひっそりと建っています。碑文には「大野越開拓記念塔」と刻まれていますが石碑です。
宮古島南岸の宮国、新里、砂川、友利の4集落(後に高台移転)や、下地島の木泊村など自然災害(津波)によって廃村、もしくは移転となった例はとてもよく知られていますが、ジャングルの多い八重山の開拓村のように、果敢に自然に挑んだものの結果として衰退によって廃村(石垣島の安良や、西表島の崎山、網取、鹿川など)となったケースは、宮古では耳にすることはまずありません(人間の移動にともなう伝説レベルの村としての伊良部島の比屋地や、古文書に滅ぼされた村の記録として残っている松原のミヌズマやなど、詳細がはっきりしないものなどはあります)。
今回紹介する大野越は昭和の初めに開拓された入植集落ですが、現在このエリアには指折り数えても片手に余るほどしか人家がありません。地名も今は東仲宗根添の小字である山川と呼ばれているようです(北側に隣接する福山集落は字西原)。
そんな大野越は完全な廃村とは云い切れませんが、村建て当時のように集落を維持できているレベルはとうに失われていることは想像に難くありません。では、大野越集落はどのような集落だったのでしょうか。石碑から読み取れること書き出してみたいと思います。
起工 昭和五年十二月
竣工 昭和十年三月
工事従事延人数 拾三萬人
工事費 七萬七千圓也
受益面積 六町歩
施工者 宮里三郎、兼島方茂、宮里良栄、沖縄製糖会社
現場責任 古川仲*1
昭和十三年五月建立
石工 玉津卯三江*2
*1 「近代宮古の人と石碑」仲宗根將二・著(1994・私家本)には、古川仲ではなく、古川伸と記載があるが、石碑の刻字は仲と読める。また、「平良市史 第十巻資料編9 戦前新聞新聞集成(下)」にも、1931(昭和6)年の謹賀広告に「大野越耕地整理 古川仲(なかし?)」と記載がある。
*2 同じく「近代宮古の人と石碑」によると、石工は玉津伊三郎と記されているが、石碑刻字を見直す限り「卯三江」と読める。また、この人物は石碑の中でも建立の日付の後に書かれているので、この石碑(記念塔)を作った石工と考えられる。
大野越と云って最初に思いつくのは、聡明な読者貴兄なら、文化遺産となっている「
大野越排水溝」ではないでしょうか。この排水溝は1928(昭和3)年から6年もの歳月をかけて完成した排水路と隧道(約600メートル)で、低地のために大雨が続くと水が溜まりやすく、マラリアの温床ともいえるような土地だった大野越を耕作地へと変貌させ、新たな入植集落を作り出しました。ところが作物に害虫が発生するなど、思うように収益があがらず、市内も近いことから生活のために農業をせずに町へ働きに出る人が増え、やがて次々と大野越を去っていったのだそうです。
この石碑の裏手に小さな祠が安置された御嶽があり、歩道の脇には大きく木を茂らせた古井戸もあり、集落であった名残をかすかに留めているといえます(一周道路は主要地方道なので、石碑のところには水準点も同居しています~こちらもマニア向け物件)。
戦後になり、大野越の変遷は新たな局面を迎えます。1947(昭和22)年、戦後の食糧難に宮古民政府が集団農場を開設して食糧危機を乗り越えます。また1959(昭和34)年から平良市が大野越開拓計画をスタートさせ、1961(昭和36)年4月に、大神島から17戸、(多良間)水納島から18戸、市内から5戸の計40戸が入植し、60町歩を新に開拓しました。
こうして文面だけで見ると、どれも同じ大野越に思えてしまいますが、戦後に開拓された大野越は、戦前のものとは場所もまったく異なることことから、後に集落名を高野と改めます(この頃までは、まだ戦前に開拓された大野越は集落として存続していた)。
そうなのです。かつて、高野集落は大野越と呼んでいたのです。
来週は村建て50年を超えた高野集落のお話へと続きます。
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