第96回 「下崎砂山逸話の碑(仮)」

atalas

2016年08月16日 12:00



石碑-いしぶみ-とは記録です。さまざまな事柄について、いろいろ々な切り口で記録した静かなる媒体です。紙や映像、電子媒体に比べたら、圧倒的に堅牢で永続的に事象を後世に伝えることが出来ます。しかし、そんな石碑であっても物理的な災害や開発工事などで失われてしまうことが稀にあります。今回はそんな事象と偶然に発掘(再会)した電子媒体とを重ねた、やや個人的な事情も含んだ石碑のお話です。

こちらが本日の主役の石碑(主にコンクリート製)。荷川取の奥、最近なにかと開発の勢いが激しい、砂山へと続く下崎の集落の隅、伊良部島の佐良浜を望む小さなビーチにひっそりとたたずんでいます。

「下崎砂山逸話の碑(仮)」。表題にしたタイトルは仮称です。
なぜなら、長々と記された碑文の表題が失われているからです。
この石碑の存在に気付いたのは、今から10数年前。この地に公園が造成された頃でした。石碑の建立は平成11年8月とありますので、計算上では碑が完成して少したった頃に見つけた計算となります。

【石碑前の小さなビーチ】
石碑をしげしげとながめ、記録用にとデジカメで碑文を撮影をしました(割となんでも気になったらとりあえず撮影しておくタチなので)。
そこから月日は流れた数年後。台風一過の後だったと思います。たまたまその石碑のビーチへ出かけたら、コンクリート製の碑本体に張られていた文書の前半部分が失われてることに気づきます。
帰宅後、残念な気持ちとともに、かつてデジカメで撮影していたことを思い出して、パソコンのフォルダを漁って碑の文章を撮影した画像を探しだし、それを元にテキスト化をしました。恐らくその時は個人のBlogネタにするつもりだったと考えられますが、結果としてお蔵入りとなってしまったようです。

そして再び時は流れ、碑のことも、テキストのことも、画像のことも、すっかり忘れてしまった頃。
この「んなま to んきゃーん」の連載100回を前に、色々とネタの総ざらえ(過去のネタ漁りともいう)をして、たまたま古いUSBの中身を覗いたところ、碑文のテキストデータを発掘したのでした(松岡益男のよう、とったら大げさか?)。

【夏草に埋もれそうな砂山ビーチの銘板】
これは天啓とばかりに、今回の掲載を決意しました。そこで記事にするにあたり、在りし日の石碑の画像(テキスト化した時のもの)を捜索しましたが、残念ながらすでに画像は消失していました。実は石碑の発見(認知)から今日までの間に、二度のHDDクラッシュを体験しており、おおむね9年半分くらいのデータを喪失してるので、テキストが残っていたことも、ある意味では奇跡(偶然)だっと思うのでした。
ともあれ、テキストが残っていたことで、形は異なれど碑の全文を紹介することが可能であり、記事として成立させることができそうだと感じて書き始めました。それと同時に、改めて記録というものは本当に大事なのだと気付かれたのでした。

さてさて、つい個人的な与太話を引っ張ってしまいましたが、それでは碑文の全貌をご紹介します。
下地恵春氏の功労を称える

1972年、沖縄の本土復帰を前後して沖縄全域にわたり、本土の不動産業者等が暗躍し土地買い占めがおこなわれたが、その頃、砂山一帯の部落有地六九三-五(注:地番) 八千坪も県内業者に売却されたのである。
ところがその後、当該業者から、先に部落から買い取った土地は構[ママ]入以前の一九七〇年に実施された土地の一筆調査のとき、すでにA氏という個人名義に移転登記されているので、先に支払った土地大金の二倍、千八百万円を返納するよう部落に通知してきたのである。
部落民は、寝耳に水と騒然となり、何百年にもわたり培ってきた八千坪という広大な部落有地が、何故にA氏の個人名義になっているのか、幾度となく部落総会や役員会等を開いたが、その経緯は正に暗中模索の繰り返しで、その真相究明に至らないまま時は過ぎていった。
そのうち、法廷闘争に持ち込まれたが、七年間に渡る裁判の結果、一審は敗訴となってしまい、部落民は正に暗闇の中に突き落とされて為す術もなく、唯悶々として月日は経っていったのである。
そこで、下地恵春氏は部落のために一身を投ずることを決し、自分の仕事の多忙をも顧みず、事件の真相究明にあたったのである。私財を擲(なげう)って砂山一帯の登記簿謄本の新旧の比較、そして昼夜を問わずして先輩やお年寄りから証言を得るなど、東奔西走を重ね、苦心惨憺の結果、二審へ向けての真相究明の、六九三、二 六十四坪を口頭弁論の資料を作成して弁護士に呈しゆつするに至ったのである。
その苦労の甲斐あって、二審で勝訴するという快挙を成し遂げ、いよいよ下崎部落は下地恵春氏の努力により八千坪の代金、千八百万円も返納しなくてすむようになりました。
それから砂山一帯がダイエーに売却された時は、会社側は砂山一帯を開発し、リゾートホテルを建設し、地元の人を雇用する、地元の活性化にのためになるようにとの話がありました。しかし、八年たった時点では何の音沙汰もなく、畑は荒野となり、砂山に出入りすることすら出来なくなりました。
そこで下地恵春氏は遊休地の活用を思い立ち、農業法人組織を作り農業振興地域に指定するように市役所の農林課に働きかけました。二~三ヶ月経ってようやく農業振興ちいきにしていされました。しかし、会社側から意義の申し出がありました。
そこで下地恵春氏は会社側と話し合いを持ち、農業振興地域の除外の条件として、砂山への出入を自由にし、駐車場、トイレ、シャワー施設を設置する場所を公に提供すること、又、二千万円を下崎部落に支払うこと等のは話し合いが成立しました。
砂山一帯が当初の計画通り開発し、地元の活性化になるように祈念して止みません。
以上、申し上げたように八千坪の問題も解決し、砂山への出入も自由になり、駐車場、トイレ、シャワー施設も出来たしし、又二千万円という大金も下地恵春氏が砂山一帯の畑を農業振興地域に指定したので、その地域を除外条件として支払われたのである。総て下地恵春氏の努力であります。
この恵春氏の功績は、下崎部落の英雄として永く語り継いでいかなければならないと思い、ここに下地恵春氏の功績を称えこの碑を建立する。

平成十一年八月 日
代表者 下地政秀
期成会
こうした変遷を知ると、砂山ビーチの取付道路が上下線を分離したリゾートチックな作りとなっているのも納得です。逆にいえばこの恵春氏がいなければ、日本のビーチ2016のトップ10に選ばれることもなかったことでしょう(ただし、トリップアドバイザーの発表するランキングは、同サイトでの口コミ数の集計なので、純粋な統計とはやや異なります)
ちなみにダイエーのリゾート計画は、ダイエー本体の経営悪化によって計画自体が頓挫しました。その後、宮古島砂山リゾートへと計画は継承されましたが、こちらも債務超過から経営が悪化、2006年に会社更生手続きとなりました(現在は不動産会社ゼファーの子会社となっていますが、こちらも経営破綻から民事再生しています)。
今のところ、砂山ビーチ界隈でのリゾート開発の再会についての話は聞こえて来ませんが、今でも砂山ビーチへ向かう道路と駐車場を除く周辺の土地は私有地となっています。
そして面白いことに、島でも1、2を争う観光地である砂山ビーチの周辺地域は、ミニ開発が乱発して多くの自然が失われてしましたが、開発予定地として長年時間が止まったままだったリゾート開発エリアは、昔のままの自然を今に残し続けているという皮肉な結果となっています。

【左】今も掲げられている「私有地につき関係者以外立入禁止」の看板。
【中】開発の著しい下崎地区で唯一のまっちゃ(商店)だった下崎商店も閉店していた。
【右】石碑の前に広がる綺麗な芝敷きの整備された農村公園。

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