「植物園の石碑を紹介するシリーズ(仮)」も遂に5週目に突入しました。顕彰碑や句碑が続いたこれまでとは少し趣きが変わって、宮古島市熱帯植物園が開園する前の姿を物語る石碑のご紹介です。
植物園の穴(トンネル)といったら、平良で育った(そこそこの年齢の)方は子供の頃、遊び(冒険)に行った記憶があるのではないでしょうか。そのくらい植物園にある穴についての体験談をよく耳にします。
そもそもこの穴はなんなのか。そのあたりを少しふれておきますと、壕(穴)は熱帯植物園から宮古青年の家にかけての丘に30か所以上が掘られており、奥で繋がっていたり、丘を貫通していたりします(中には落盤して埋まっているところもある)。これらの壕は「海軍第三一三設営隊の地下壕群」と呼ばれる戦跡で、陣地構築を主とするこの部隊が作った壕なのです。
ちなみに戦時中、宮古島へ配備された3万人強の兵力のうち、陸軍が2万8千名なのに対し、海軍はわずか2500名ほどでした。彼らは帝国海軍の沖縄方面根拠地隊
宮古島警備隊と総称される一団でしたが、配備の規模が小さかったことから、陸軍の沖縄方面守備を任務とする
第32軍隷下の
第28師団(通称・豊部隊)の指揮を受ける(他に宮古に陸軍は独立混成
第59旅団の碧部隊と、同
第60旅団の駒部隊などがいた)海軍の所属の部隊という位置づけとなっていました。
これら海軍は主に現在の宮古空港にあたる海軍飛行場(この他に陸軍の飛行場が二か所建設された)や、重要港湾の平良港(実践投入はなかったが、特攻艇も配備されていた)を中心に守備し、パナタガー(旧称ピンフ嶺)やムイガー(東保茶根)などに砲台も有していました。
また、二重越(ふたえごし:宮古テレビ裏あたりから新ゴミ焼却場付近にかけての丘脈)には、海軍の秘匿司令部として大規模な壕群が構築されていました(気象台もカママ嶺から軍部の意向により、一時的に引っ越してきていた)。
末期には現地招集などで兵力の増強も行った陸軍(一説には戦力というより、住民も徴用しての壕掘りなど陣地構築ばかりだったとも)に対して、海軍は圧倒的に少数でしたが、潤沢な物資に加え高い技術の工兵も擁していたらしく、元々仲の悪いといわれる陸軍とは、少し状況が異なっていたようです(筆者の感想を含む)。
前置きが長くなりましたが、そんな丘の麓にあるのが、今回ご紹介する「海軍第三一三設営隊慰霊碑」です。
1980(昭和55)年11月2日に、有志が建立した慰霊碑となっていますが、あまり碑に関する詳細情報がありません。
宮古では地上戦が行わなかったため、本島に比べて戦死者(戦没者と書く時は民間人を含む)は少なく、栄養失調やマラリアで亡くなった方が多かったという話はよく知られています。また、宮古に配備された海軍全体の戦死者は、およそ150名ほど(ただし、宮古島近海で沈んだ艦艇については含まず)。さらに、第三一三設営隊の部隊規模は650名ほどですから、慰霊されている戦死者数はかなり少ないものと考えられます。
そして戦後のお話。こうした陣地壕などが構築され、大きく荒廃した山林を自然教育の場として再興しようと、当時の市長であった
眞栄城徳松によって、1967(昭和42)年、
平良市熱帯植物園が造成が開始されます(当時)。そんな縁もあり、慰霊碑の並びには真栄城徳松氏の胸像が建立されています。
本当に石碑について語れることは申し訳ないくらい少ないのです。
今回の記事を書くにあたって、旧軍関係のネタを収集していて気になった未整理物件をふたつ紹介させてください。
ひとつ目はお題目の海軍ではなく、陸軍の28師団所属の「豊5623」として宮古に駐屯した
歩兵第30連隊について。
この連隊は1896(明治29)年に編成された由緒ある部隊で、日露戦争から満州事変、日中戦争、ノモンハン事件と大陸を渡り歩き、戦況の変化から第28師団に所属が変更され、師団とともに南方転用となってサイパンの奪還のため派遣されようとしていましたが、サイパンが陥落してしまったため、沖縄を守備する第32軍に師団ごと編入され、先島群島の防衛を担当することとなり、遥々、宮古島へとやって来たのです。
この第30連隊は新潟県高田が所在地で、現在も陸自の
高田駐屯地が存在しています(旧軍では
第13師団で、日本のスキー発祥の地と云われている)。
そして現在の住所は、1971年に高田市と直江津市が合併して出来た上越市となるのです。そう、あの人頭税廃止運動の
中村十作の郷里(正確には板倉町。現在は平成の大合併により上越市板倉区となっている)と同じ地域からやって来た人たちだったという、細かすぎるネタ(ちょっと強引だったかな?)。
そしてもうひとつは、総務省が出している「国内各都市の戦災の状況」というサイトにある、
「宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)」というまとめ。実はこの中に「3.空襲等の状況」という項目の損失船舶に、「2万トン級の航空母艦」という記述があります。航空母艦といったら、つまり空母です。宮古近海に空母が沈んでいるなんて聞いたことなく、いったいどんな空母がどこに沈んでいるのだろうと、脱線ついでに探しまくってみました。
幸い帝国海軍の艦船は
wikipediaに網羅されているので、ひとつひとつすべての空母(正規から軽、商船改造まで)あたってみましたが、宮古島近海という単語すら発見することが出来ませんでした。
「損失船舶」なので帝国海軍所属の空母であることは間違いないのですが、一応、米軍の空母の記録もざっと漁ってみると、ちょっと興味深い記述が出てきました。
1944年12月にフィリピン東方沖で発達した猛烈な
台風コブラです。
当時はまだ気象観測技術が脆弱で、台風の進路予測を見誤り、フィリピン海で作戦行動中だった米軍の第38任務部隊は、台風コブラに直撃してしまいます。この部隊には8隻の空母が在籍しており、台風の大時化で大量の艦載機を損失(物損や火災、海洋投棄など)します。また、多くの死傷者を出し、駆逐艦3隻も沈みましたが、空母は大きな損害を出すものの台風で沈むことはありませんでした。
そんな台風コブラの影響下、先島諸島を挟んで北側にある東シナ海で、1944年12月19日に米潜水艦との戦闘で沈んだ空母が一隻あることが判りました。空母の名は
「雲竜」。排水量は20450トンと、先の記述と重なります。そしてこの「雲竜」は、神風決戦兵器、噴式戦闘機
「桜花」をフィリピンへ輸送する任務についていました。
台風余波の悪天候の中、米軍のバラオ級潜水艦
「レッドフィッシュ」が、宮古島沖で
第九〇一海軍航空隊(シーレーン防衛専門の航空部隊)の対潜哨戒機に発見され爆雷攻撃を受け、「レッドフィッシュ」はその厳重な警戒体制から、重要な船団が近くにいると悟ります。
やがて駆逐艦「時雨」、「檜」、「樅(もみ)」に護衛された「雲竜」を発見し、雷撃戦を展開。応戦むなしく「雲竜」は雷撃を受けて撃沈します(搭載していた桜花に引火して爆沈とも)。
「雲竜」を沈められた護衛の駆逐艦「檜」は、3度の爆雷攻撃を行って「レッドフィッシュ」を退けます(音響装置や電気系統に重大なダメージを追うも辛く反撃をかわした)。
この空母「雲竜」の沈没地点は、
北緯29度59分 東経124度03分といわれ、位置的には上海沖といった方がピンとくる海域(沖縄準拠でも、石垣島の真北くらい)なので、これを宮古島近海とは呼ぶにはかなり盛り過ぎている気がしますが、戦端が宮古島近海から始まるという点では、この空母「雲竜」のことを、贔屓目で損失船舶と語っているのではないかと妄想します。ともあれ台風まで出て来るあたり、とても興味深い戦史なので少し研究してみたくなりました(どうも話はさらに多岐に渡っている)。
余談ばかりが長い与太話を最後までお読みいただきありがとうございました。