先週からスタートした、「人頭税にまつわるエトセトラ」の第二回は、中村十作とともに指導的役割を担った、城間正安の住居跡を記す「人頭税廃止運動ゆかりの地」石碑です。碑のある場所は島の南、下地の嘉手苅集落。入江湾の東側になります。字(あざ)でいうならば、スガ子(すがね)付近のサトウキビ畑の前に建立されています。
尚、実際の住居跡は、碑の裏手の方になり、現在は畑となっているので正確に特定することは出来ません。
人頭税廃止の運動はひとことで云うならば、城間正安と中村十作の出逢いによって始まったとも云えるかもしれません。十作は遥々新潟から真珠養殖を夢見て、先島までやって来ました。彼の当初のた目的地は八重山だったといわれていますが、那覇からの船の中で、田村熊冶という男と知り合います。
田村は正安と同じ製糖技師で、任地の八重山に向かう途中でした。なにをどう田村に吹き込まれたのかは判りませんが、おそらく面白い男がいると正安を紹介したのではないでしょうか。そして十作は宮古で途中下船し、田村の紹介で正安と出逢うことになります。
正安と出逢い、すぐに人頭税廃止に動き出したわけではなく、十作は真珠養殖の適地を探すという目的で島内を見て廻ります。もしかするとこの行脚によって島の実状を見聞することになったのかもしれません。
正安は1860(万延元)年8月19日、那覇の久茂地に生まれたと云われています。日本史で云うところの安政6年、大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が起きた年になります(4月に万延に改元されたので、正安の生年月日とされている8月19日は、和歴では万延元年ということになります)。
1884(明治17)年、正安は宮古の農事試験場に製糖技師として赴任します。正安が人頭税廃止運動に加担するきっかけには、この製糖技師という肩書も重要になってきます。
というのも旧藩時代、宮古では蔗糖(サトウキビ)の栽培は許されておらず、1888年に甘蔗栽培制限令がようやく撤廃され、島内での甘蔗の栽培が奨励されるようになります。そして製糖技師の正安らによって製糖の指導が行われますが、農民たちは関心を示しませんでした。
理由は人頭税が未だに続いていたことと、廃藩置県後に宮古でも開始された製糖の代金が、蔵元に積み立てられたまま農民に払い戻されていなかったことから、農民たちは貢糖に反発していました(恐らく納税分以上の砂糖は買取、現金化という意味と思われます)。
しかし、正安らの努力によってこれを解決。砂糖の代納と製糖機具の無償貸与が許可されることになり、ようやく宮古でも製糖が盛んに行われるようになりました。
【城間正安が大正13年に著した「沖縄史」 】
この後、十作らと廃止請願行動へと移り上京するも、資金の都合から十作にあとを託して、正安は1894年2月に帰島します。1890年、正安は製糖技師を辞め、農家になることを決意し、碑の建っている嘉手苅集落のスガ子へと移住します。しかし、農民たちにマラリアの危険のある土地(入江湾が近い)だと反対されるも、正安は決心を変えず、その地で製糖を始めます。正安がこの地に居住したのは、農民総代としてともに人頭税廃止に尽くした川満亀吉の家から北に100メートルほどの場所であり、正安と亀吉の強い結びつきを感じさせます。
正安の農民たちに寄り添う活躍は続き、無償貸与から10年以上が経過し、使用に耐えなくなってきた製糖機具を買い替える余力のない農民たちを想い、各村の議員を集めて那覇へ出向き鋳物工場と折衝して、3年の年賦払いで25台を購入します。
請願から10年、1903年。ようやく人頭税が廃止されます(議会の解散なとが続き、なかなか廃案へ進まなかったため)。それから3年。正安は沖縄商航会社、宮古物産会社を設立して宮古を離れますが事業には失敗。翌年、農民たちに乞われて宮古に戻るも、再び宮古を離れて那覇へ戻ります(明治43年頃?)。
その後の正安は、霊的な生活、信仰の生活へと傾倒して行きました。
谷川健一の『沖縄 辺境の時間と空間』によると、「(略)正安は製糖をおこなったいたが、霊感を得て明治43年頃から那覇で、神に仕える霊的生活に入った。彼の烈しい癇癪や飽くことのない反骨は、彼がただの人物でないことを示すものであった」(P176)とあります。また、『隠れたる偉人-城間正安翁-』城間正八・佐久本嗣宗 著(1932年5月、沖縄国際大学日本語日本文学研究/沖縄国際大学文学部紀要)によると「人交感 子之方大神の神格 霊威で系図の誤記を発覚し始めて正しい元祖を語る」と書かれており、晩年はユタとして覚醒したようです。
1944(昭和19)年8月(?)、城間正安は85歳で亡くなります。面白いことに、西里蒲(1856-1908)に次ぐ生まれで、二番目に年上でありながら、人頭税廃止請願の主要人物の中では一番最後まで生存していたことになります。
最後に、碑文を紹介しておきますが、どうも誤字脱字が多いようで、一部()を付けて補正してあります。キビ酒を造っていたとの記述は、もしかしてサトウキビ(の廃密糖)からラム酒を作っていたのでしょうか。だとしたら、大東島の「CORCOR」よりも遥か昔にラム酒を作っていた事になります。誰かこの謎を解ける人はいませんか?
人頭税は、1637年から1903年までの長きに亘って宮古、八重山に課せられた過酷な税制である。1893(明治26)年、宮古農民はこの極悪非道な人頭税廃止に向かって立ち上がった。この運動のリーダーとして重要な役割を果たしたのが城間正安である。
正安は那覇市久茂地の出身で、1884(明治17)年な糖業技師として宮古農事試験場に赴任し糖業の指導にあたるが、人頭税制下てせはキビ作の普及は望めないと考え、職を辞し、嘉手苅村総代川満亀吉のすすめでこの地に住居を移し、自らキ(ビ)酒造業に従事する。
人頭税に苦しむ宮古農民の窮状に憤りを威(感)じていた正安は、真珠養殖のため来島していた中村十作や川満亀吉と意を一つにして人頭税廃止運動を威(盛)り上げ、安藤を成功に導いた。
正安が日本語と宮古方言に通じていたことで、農民と十作、農民総代と本土新聞社と政財界の大物との通弁役を果たすことができ、正安なしにはこの偉業は実を結は(ば)なかったといわれる。
人頭税廃止請願100周にあたり、宮古農民の先頭に立ち人頭税廃止の一大偉業の完遂に尽力された城間正安をたたえ、この地を人頭税廃止運動ゆかりの地として永遠に語り継ぐためにこの碑を建立するものである。
平成5年11月
下地町教育委員会
【参考資料】
「隠れたる偉人-城間正安翁-」 城間正八・佐久本嗣宗 著(玻名城印刷所 1932年5月)
※那覇市歴史博物館デジタルミュージアム図書資料より
「沖縄史」 城間正安 著(霊感堂 1924)
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