間違いなく宮古で知らない人はいない、そして島で一番格式の高い御嶽(?)とあろうと考えられる、漲水御嶽にまつわる石碑を今回は紹介してみたいと思います。
語るまでもなく、この御嶽は宮古創世の神話である人蛇婚説(島建ての神である大蛇と、娘の間に三人の娘が生まれ、娘たちは漲水で島守りの神となる)にも登場します。
また、14世紀の与那覇原軍との戦いで、漲水御嶽付近に追いつ詰められた目黒盛は、突然現れた勇猛な犬(神犬説or飼い犬説)に助けられ、死地を脱して勢いを取り戻し、与那覇原軍を蹴散らして敗走させるなど、伝説と歴史に彩られた由緒ある御嶽です。
そんな御嶽にある石碑の名は「仲宗根豊見親凱旋奉納石垣之碑」といいます。
御嶽の南側(御嶽を正面に見て左側の道路沿い)の石垣を奉納したというものです。
目黒盛豊見親の玄孫でありながら、祖先のかつての仇敵であった与那覇勢頭豊見親の孫、大立大殿に育てられるという、まるでドラマのような生い立ちを持った仲宗根豊見親が、1500年に中山王府の先導で八重山の遠称計赤蜂(オヤケアカハチ)を征討に出兵。神霊の加護によって勝利したことから、仲宗根豊見親ら討伐軍は漲水御嶽の神域を整備して石垣を築き奉納したとされます。
どういうわけか、現在、市指定史跡(1974年指定)となっている石垣の上に、この石碑は建立されています。
現在は埋め立てによって漲水御嶽から、海は遥かに遠くなり平良港と呼ぶようになってしまいましたが、かつては漲水の浜であり、御嶽の南端(今のモンテドール側)は波が洗っていたといわれています。
残念ながら、その当時の痕跡を確認することできませんが、画家・
宮原昌茂さん(1899年・明治32年生まれ)が描かれた、「蔵元とその周辺図」という回想図が、総合博物館に展示されています(以前は綾道石畳の下に
案内看板があり、宮原氏の描いた回想図のレプリカが描かれていた)。森に囲まれた漲水御嶽に隣接するように、船着き場と登楼のような門のある蔵元が描かれています(浜でないのは明治期の回想だかなのか?)。
この仲宗根豊見親の戦勝記念に築いた石碑ですが、建立されたのは驚いたことに、1933(昭和8)年2月なのです。遠称計赤蜂(オヤケアカハチ)を征討したのが1500年ですから、実に433年も後に石碑を建ているのです。
これに気付いた時は、宮古人の石碑好きも極まったといっても過言ではないと思いました。
最後に、余談を少々。
与那覇原軍に追い詰められた目黒盛を助けた犬が関係する井戸が、漲水御嶽の斜め向かいにあります。綾道の石畳の脇に「平和の犬川」と刻まれた石碑と、井戸を祀ったニブス川御嶽です。
今でこそ円柱状の竪穴式に整備されていますが、どうやらかつては穴井(アナガー)だったようで、史料によると、目黒盛を助けた犬が潜んでいた洞だったことから、犬川と呼ばれるようになったといわれています。
もうひとつ余談を重ねておくと、ニブズ川御嶽の敷地内には、唐の主と水の神(竜宮)を従えて、センターに陣取る「豆腐の神」を祀った拝所があります。聞伝によると、なんでも個人の趣味で作られたものだとか。世の中には面白い御嶽があるものです。
【参考資料】
103歳の画家宮原昌茂さん、古里で個展/平良市(2002/02/05 琉球新報)