第48回 「土底村里井戸改修工事」

atalas

2015年09月15日 12:00



なんとなく続いている「水」シリーズも遂に第7弾となりました。深い山々がなく大きな河川のない宮古島は、いつの時代にも水にまつわる逸話がいくつもあります。人の営みに欠かすことのできない水を求めた、先人たちの苦労が忍ばれます。
今回紹介する碑は宮原の南端、土底(村)の里井にある「井戸改修工事」の寄付一覧の石版です(コンクリート製)。

これはもはや石碑とは云い難いものかもしれません。ですが、眺めてみるとなかなかに面白い碑なのです。
碑のある井戸の位置は、城辺線沿いにある宮古島温泉のホテル脇の農道を宮原に向け北進。ひとつめの畑道を右折したところにある橋(といってもボックスカルパート)を渡った先、サトウキビ畑の一角にあります(周辺の人家は、100メートルほど北東に数軒のみ)。

この水路は2003年に宮原地区の県営灌漑排水路として整備されたもので、ここから旧宮原小脇の親水公園を経て、高野漁港南側の宮原第2親水公園から滝を形成して北海岸の海へと注いでいます。流域全体が護岸された用水路となっていますが、宮古では珍しい複数の支流をもつ河川です。
大きな支流だけで3ルートあり、さらにそこへ流入する大小のクリークが無数に存在しています。ただ、ふだんは本流と3支流以外はほぼ水がありません。そんな支流のひとつに山田橋という歌にもなった橋があります。
また、現在工事中の仲原ダム(島の南岸部)のオーバーフロー用の隧道(根間地から更竹丘脈を回り込み、地下の分水嶺を越えて瓦原まで掘削している)が、瓦原橋の下流でこの排水路に合流しています(常時、流入するわけではない)。

山のない宮古でこれだけの広さの地域に、水路が張り巡らされていることはかなり珍しく、いかにこの土地が低く水はけが悪いかを物語っていると感じます。なにしろ井戸のある集落(小字)は、土底(んたずく)というくらいなのですから。
水はけが悪いということは、当然、マラリアを媒介する蚊が発生しやすい場所でもあるわけで、土底、更竹、山田あたりから、宮原を挟んだ、高野あたりの開拓と村建てには相当の苦労があったといわれています(人頭税廃止にともなう名子-ナグ-の解放により、悪地を与えて開拓をさせたなど)。

また、戦中はもう少し南側の長南(城辺地区)を中心に大規模な日本軍の駐屯があり、周辺である土底や山田あたりの集落にも分屯していたといいます(西更竹の丘脈には司令部壕といわれる長大な壕も掘られていた)。

まさに土地に歴史ありで、興味が尽きない話がばかりなのですが、このままだと脱線のしっぱなしになってしまいますので碑の話に戻したいと思います。

この碑をよく見ると、
卯の年六月の長期旱魃に当たり(側面に続く)本井改修を成す
一九六三年旧五月十四日
工事責任
仲宗根涼幸
と刻まれています。

年表を紐解いてみると、1963(昭和38)年の1月15日から5月31日まで、137日間も雨が降らないという70年ぶりの大旱魃がおこりました。その年のサトウキビの収穫高は例年の50パーセントにも満たなかったそうで、「卯年の旱魃」と呼ばれているようです。
余談になりますが、1959(昭和34)年にサラ台風、1966(昭和41)年にコラ台風、1968(昭和43)年にデラ台風と、記録に残る宮古島台風の三姉妹が襲います。さらに1971(昭和46)年には、186日間という長期に渡って雨が降らない異常旱魃も発生。天変地異級(カタストロフ)の10余年が宮古島を試します。

碑は井戸の改修の記録なので、集落の人々が寄付した金額と名前がずらりと48名ほど書かれているのですが、金額の単位が円ではなく「仙」となっています。当時は米軍統治下なので、通貨は円ではなくドルだったことから、セントを意味する「仙」の字が書かれており、ちょっと歴史的な背景も見てとれます(画像をクリックすると大きくなります)

この井戸の改修日を新暦に換算してみたところ、7月4日となりアメリカの独立記念日と重なるのは何か意味するところがあるのでしょうか(琉球民政府時代は米独立記念日は祝日だったのだろうか?)。
また、137日間もの雨が降らなかった日々は明けてはいますが、旱魃であったことには変わりありません。改修の完成祝いに雨乞いのクイチャーを踊ったりしたのでしょうか。
粗雑な手作りの碑にはそこまで知ることが出来る記録はありませんが、ついついそのあたりも気になって妄想してしまいます。

【参考資料】
ヤマダ狂想曲(ラプソディ)
嗚呼、山田橋!

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