第43回 「海底水道竣工記念」

atalas

2015年08月11日 12:00



今回紹介する石碑-いしぶみ-は宮古島上水道組合が建立した、宮古島池間島間の海底送水管の竣工記念碑です。こちらの碑は狩俣の集落名の由来とも云われている、“さすまた”の地形(西平安名崎と池間大橋の両サイドに伸びたふたつの岬)の真ん中にある西の浜にあります。

碑文には『一九七二年七月 宮古島上水道組合』と付記されており、この組織は現在の宮古島市上下水道部の源流となります。
その歴史を紐解いてみると、1943(昭和18)年に大日本帝国海軍が旧平良町内にある白明井(スサカガー/地図)のウリガーを水源とした簡易上水道を敷設し、地域ごとの小規模な私設水源に変わり本格的な地域水道が始まりす。また、戦後はアメリカ軍がこれを改良して利用したそうです。

1953(昭和28)年、旧平良市の電気・水道・港湾を近代化整備する「三大事業」の一環で、白川田水源から袖山浄水場を経て平良市街地へ供給する本格的な上水道が作られます。旧城辺町でも1954(昭和29)年から簡易水道の建設が始められ、1977(昭和52)年までに島内のほぼ全域で上水道が利用できるようになります。
上水道設備の普及に伴って島内の上水道を統合運用する必要性が高まり、1964(昭和39)年5月に米軍政府が宮古島用水管理局を設立しましたが、住民の反対にあって廃止(高等弁務官布令によるトップダウンの押し付けを嫌った)され、これに代わるものとして翌1965(昭和40)年7月1日に宮古島上水道組合が設立されます。
1972(昭和47)年5月本土復帰に伴い宮古島上水道企業団と改組。また、2005(平成17)年10月には5市町村合併によって宮古島市が誕生し、宮古島水道局に変更され、その後、2010(平成22)年より宮古島市の行政改革によって水道局と下水道課を統合し、現在の宮古島市上下水道部となります。

上水道のおさらいをしたついでに、宮古島から各離島への送水管についても記録しておきたいと思います。

伊良部の上水道は独自水源なので宮古からの送水はありませんが、農業用水は伊良部大橋の完成により、宮古から橋を通って伊良部に送られています。
敷設距離が圧倒的に大きい大神島が、意外と宮古から遠いことがよく判ります。また、同じような規模と思われている池間島と来間島ですが、格段の差があることもよく判ります(両大橋の完成は90年代)。

それにしてもこの資料の施工年度は、池間島への送水管は1971(昭和46)年度となっています。ところが、島の歴史・出来事をまとめた年表での池間島への海底送水管の工事完成は、1973(昭和48)年8月に竣工と記されています。肝心の石碑に刻まれた日付は1972(昭和47)年7月。これはどういうことなのでしょう。。。
なんとなくですが、伊良部大橋の開通と完成で揉めたことと同じなのでしょうか?(完成は構造物としての竣工。開通は道路としての開業の違い)。昔からちょっと詰めが甘いところが、宮古人のウイークポイントでありチャームポイントなので、そこが愛すべきポイントなのですけれど、やばりちょっと悩ましい・・・。

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