第32回 「ミバエ絶つ」
なにやらちょっと物騒な碑面の文字ですが、この碑はJAおきなわの「あたらす市場」の裏手、JAおきなわ宮古地区事業本部(旧・群農協)入口前にひっそりと建っています。
あたらす市場が新築されるまでは、玄関先の小さな植え込みとして作られていましたが、残念ながら現在は施設の裏に隠れ、誰にも気づかれないほど地味な存在になっています(石碑の位置が変わったのではなく、その場に新に建物が出来ました)。
※新しいあたらす市場が建設される前の碑(2011年5月撮影)
ミバエ(実蝿)は植物の実に被害を及ぼす害虫として、農業の世界では悪名の高い昆虫と云われています。特に沖縄ではウリ類に被害をもたらすウリミバエと、柑橘類や果実類につくミカンコミバエが、台湾・東南アジア方面から侵略してきました。
ウリミバエは1919年に初めて八重山諸島で確認され、その後、1929年に宮古諸島、1970年に久米島、1972年に沖縄本島、1973年に与論島と沖永良部島、1974年に奄美諸島、19
77年に大東諸島と勢力を拡大してゆきました。
また、ミカンコミバエは1919年に沖縄本島の嘉手納で生息が確認されましたが、この時すでに県域全体に蔓延していたと考えられ、やがて1929年には奄美諸島へも進出します。
このままでは本土にゴーヤなどのウリ類や柑橘類だけでなく、パパイヤ、マンゴー、グァバ、バナナなどの果実を出荷することができないため、特殊病害虫として根絶駆除のプロジェクト(復帰事業の一環)が始まりました。
ミカンコミバエはひと足早く、1966年に奄美諸島から「誘殺剤による雄除去法」による駆除が開始され1980年に根絶。1977年からは沖縄本島と近接離島でも行われ1982年に根絶。宮古諸島(1982~1984年)、八重山諸島(1982~1986年)と地区ごとに根絶駆除を進め、1986年に県域でのミカンコミバエの根絶を達成しました。
一方、ウリミバエは1972年に久米島(根絶は1978年)から不妊虫放育法によって始められ、島単位でひとつひとつ根絶を確立してゆきます。
宮古諸島は久米島に次いで1984年から施策され、1987年に根絶を宣言。これを記念してこの碑が建てられました(根絶した現在も、再発させないための
不妊虫を放っています)。
その後、奄美が1989年。沖縄本島及び周辺諸島、大東諸島は1990年。八重山諸島も1993年にウリミバエの根絶に成功します。この間に放飼されたウリミバエの不妊虫の総数は約530億7743万匹に上るそうです。
【左】現在の碑を正面から見たところ。ミバエを根絶したおかげで今の農業の繁栄があるはずなのですが…。
【右】碑の裏手が通路になっているので、かろうじて見ることは出来ますが、植え込みの周辺は荒れ始めています。
そしてこの碑を取り上げようと準備していたさ中、こんなニュースが飛び込んできました。
「元沖大教授の伊藤嘉昭さん死去 ウリミバエ根絶を指揮」
/沖縄タイムス(2015年5月19日)
亡くなられた伊藤嘉昭教授を中心に、個体群生態学者らが事業計画に当初から深く関わり、綿密な生態学的データの収集による調査結果の検討と、根絶事業が同時進行的行われ、根絶に多大な効果をもたらしたのだそうです。
日本の侵略的外来種ワースト100に選定されている生物の中で、ウリミバエは唯一根絶に成功した生物だというのですから、素晴らしい業績を遺された方であったと知りました。
【資料】
沖縄県病害虫防除技術センター
連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定 [モリヤダイスケ]
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