第21回 「盛島明長生誕之地」
今回は
第5回で宮古高校の正門に移転リニューアルしたばかりの胸像を紹介した、宮古王・盛島明長の生誕の地の碑-いしぶみ-です。
場所は彼が生まれた場所は、下地間切洲鎌。現在のAコープ下地店の近くにある洲鎌交差点そば、洲鎌バス停の裏手にあります。
訪れたこの日、石碑には真新しい献花がなされていました。お墓ではなく生誕の地の碑なので、誕生日が近かったのかもしれないと調べてみるも、明長は1880(明治13)年12月19日の生まれで、その線の推理はハズレでした。
恐らくは旧十六日祭のあとだったからではないかと邪推。けれど、献花の真ん中に奉げられている線香が、沖縄の黒い平香ではなく、内地風の緑の束線香なので、この碑を参ったのは内地の方だったのかもしれません(小さな解けそうにない謎がひとつ)。
【石碑裏面の解説】
盛島氏は一八八〇年此地に生る。長崎医學専門學校卒業後、政界に進出。縣會議員四期、うち議長二期。更に國會会議員二期當選。その間に宮古中学校の創設、宮古高等女學校の縣立移管、宮古島測候所、池間島燈臺の設立など、幾多の業績を遺した。
又、宮古農會長、織物組合長として斯業(しぎょう)の發展にも大いに貢献をした。その上、氏は円満高潔にして人情豊かな人格と、烈々たる愛郷心の故に、宮古王として全郡民の敬慕礼讃を一身に集めていたが、一九四一年六十二才で病没。郡民葬を以て弔われた。
一九六五年九月十一日 盛島明長顕彰會
※読みやすくするため、句読点を加筆してあります。
【左】 画像は石碑の裏手を写したものですが、林の脇(石碑の敷地内)に、謎のトラバーチンのモノリスがふたつ立っていました。この碑の隣の空き地は「洲鎌遺跡」らしいのですが、このモノリスは遺構なのでしょうか?(みゃーかの石材?)。
余談ついでにもうひとつ。洲鎌村と上地村は隣接しており、洲鎌村の村番所は洲鎌交差点の角の変電施設があるところに。上地村の村番所は上地の交差点の角の下地保健センター(旧下地町役場)にありました。
また、上地の村域は与那覇湾に沿って細長く、洲鎌村と与那覇村を分断するように入り込んでいるので、洲鎌、上地、与那覇の三村の中心部はかなり狭いエリアに密集しています(現在は宅地が連なっているので境目は判断しづらい)。
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第5回 「盛島明長像」
※「盛」の字はパソコンでは表現できない異字体ですが、便宜上一般的な漢字とさせていただきました。
連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定 [モリヤダイスケ]
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