第11回 「ドイツ商船乗組員救助者 顕彰碑」

atalas

2014年12月30日 12:36

遂に「ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念碑の物語」は延長戦に入りました。前回、調査不足が露呈したための延長戦なのでが、今回紹介するのは「うえのドイツ文化村」の中にある碑なのですから、ちょっとぱかりお粗末な結果で大変申し訳ありませんでした。
第8回で紹介した「独逸商船遭難の地-公爵近衛文麿-」から、ほんの少しだけマルクスブルク城に寄ったところにあるレリーフです。

レリーフのモチーフは難破したロベルトソン号に向け、荒れた海をサバニを漕いで救助に向かう三人の島人を描いています。
その碑文には
ドイツ商船乗組員救助者 顕彰碑

 明治六年(一八七三年)ドイツ商船R・Jロベルトソン号は、中国の福州からオーストラリアのアデレード向け出航したが航行中、台風に遭い無念にも乗員二人が大波の犠牲となり、その上、マストと二隻のボートも流失し、僅かにマスト一本とボート一隻を残すのみとなった。
 木の葉のように嵐の大海原をさまよう中、七月十一日、宮国の浦穴川の東沖一〇町余りの大干瀬に坐礁したのである。嵐の中の海面は潮たぎり、怒濤逆巻く波の音は物すごく言語に絶し、哀れにも乗組員の生命は絶対絶命である。
 この有様を発見した宮国の住民はクリ舟をこぎ出して救助に向かったが、波高く船に近づくことは容易ではなく一旦島に引きかえして来た。そして、一晩中かがり火をたいて船上の乗組員たちを激励して勇気づけた。
 「人事をつくして天命を待つ」住民の意気天に通じたのか、さしもの嵐も七月十二日にはようやくおさまってきたのである。
 民衆の白熱的応援によって宮国の勇士等がクリ舟をこぎ出して、ようやくドイツの遭難船に近づき見事乗組員全員の救助に成功したのである。救助された乗組員は三十四日間にわたり手厚く看護して無事本国へ帰国させた。
 荒れ狂う激浪の中、身の危険も省みず小さなクリ舟をこぎ出して異国民の生命を救助した勇敢な上野村出身の勇士は、砂川蒲戸、垣花真津、宮国坊である。彼等の決死の行動、博愛の心は我々に脈々として受け継がれており、今日、村づくりの理念として大きな役割を果たしている。
 こうした彼等三名の歴史的偉業を末永くたたえ、今後精神文化遺産として広く正しく後世に伝えると共に村づくりの糧としていくことを念じてここに顕彰を建立するものである。

平成八年七月 建立
沖縄県上野村
納入 (有)沖縄ブロンズ

※読みやすくするため一部、句点を加筆しました

と、記されている。第9回の「佐良浜漁師顕彰碑」の記述とは趣きが少々異なり、宮国出身の三名が救助にあたっているように書かれている。どうやら、さまざまな文献や研究資料(史料)によれば、海に慣れている佐良浜漁師と地元に詳しい宮国の人が、混成チーム(二隻で)で救助にあたったということらしいそうです。
そしてこの宮国の三名は漁師とかではなく、遠見役。つまり海の見張り番であったようで、想像するに最初にロベルトソン号を発見した人たちなのではないだろうかと妄想します。

後の60周年や100周年の際には、この救助にたずさわった人々の末裔らが表彰されていたりもするのですが、どういう訳だか、佐良浜と宮国でそれぞれ別々に博愛の物語が語られ、本来の歴史の姿が歪められて現代に伝わっているのであります。
その点ではやや残念な気もしますが、偽史はこうして常に生まれ続けているものなので、逆に云い換えると、こうした過去視から歴史ドラマを再構築して、その謎解きを楽しんでいるのかもしれません。
タイムマシンが完成するまでには「ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念碑の物語」の真実にたどり着き、「Q.E.D.」と云ってみたいものです。

連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定  [モリヤダイスケ]

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