2019年04月20日 00:26
こんにちは。一番座より片岡慎泰です。
今回は、凹天が最後の日々を送った野田市の安楽邸(あらくてい)を取材した山口旦訓(やまぐち かつのり)を取り上げます。安楽邸とは、2番目の妻なみをの洋裁仲間だった桑田ことが、キッコーマンの第5代目社長(在任期間1958年~1962年)茂木房五郎五代目(もぎ ふさごろう)の妹だった縁で、凹天のために建てたアトリエ兼住居と、一般には紹介されています。
山口旦訓は、日本のアニメーション映画の歴史を研究するために不可欠とされる『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を渡辺泰(わたなべ やすし)とともに著しました。一昨年開催された川崎市市民ミュージアム常設展『国産アニメーション誕生100周年記念展示 にっぽんアニメーションことはじめ ~「動く漫画」のパイオニアたち~』(2017年9月2日~12月3日)に、何度か私は足を運びました。
パイオニアとして名を連ねたのは、われらが凹天、幸内純一(こういち じゅんいち)、前川千帆(まえかわ せんぱん)、北山清太郎(きたやま せいたろう)です。日本アニメ映画のパイオニアに前川千帆が入っているのは、不思議に思う向きもいるかと。しかし、現在では、幸内純一が前川千帆と『なまくら刀』を制作したという記録に基づき、彼もパイオニアのひとりとして、名前を連ねるのが通説となってきました。
川崎市市民ミュージアム常設展『国産アニメーション誕生100周年記念展示「にっぽんアニメーションことはじめ ~「動く漫画」のパイオニアたち~』で、記念講演「アニメーションを史を訪ねた男、100年を語る」をしたのが、山口旦訓です。裏座の宮国優子(みやぐに ゆうこ)、プロダクツの名手野口晶子(のぐち あきこ)と一緒に、私は勇んで出かけました。『日本アニメーション映画史』の刊行当時の話は非常に面白く、時にご自身の裏話をするなどユーモアたっぷりで、会場からは笑いも漏れることも。私が感謝のメールを送りますと、元気なお嬢さんがふたりいましたねとすぐに返信をいただきました。
アニメーション専門家にとって周知の事実だったのでしょうが、『日本アニメーション映画史』には、山口且訓と記されています。ご本人の話によれば、当時は旦訓を「カツノリ」と読めないので、且訓と表記したとのこと。私事で恐縮ですが、私の名前も慎泰と書いてノリヤスですが、DMにはシンタイ、シンヤスなどと、未だにやってきます。私の亡父が何を思ってそう名付けたのか、今となっては聞いておけばよかったと悔やまれます。私の人生で、シンタイ、いいぇ、シンヤス、いいぇ、じゃぁノリヤスかな、と呼べたのは、ただひとりだけです。それが、なんと、私の修論の主指導。ところで、山口旦訓の記念講演以来、賀状をお送りすると、お返しの賀状をいただいていますので、ここで披露します。
さて、『日本アニメーション映画史』の執筆動機は、この本の後書きにあります。「昭和三十六年夏。東京の近代美術館で日本のアニメーション映画特集をみた。これが縁で、私は、卒業論文のテーマを『日本アニメーション映画史』と決めた。決めたのはよいが、これという参考書はみつからなかった。このため、自分の足で調べあげることにした。早大の演劇博物館をはじめ、あちこちの図書館を回り、プロダクションを回り、老いたアニメーターたちをたずね歩いた。そして、なんとか全容をつかむことができたところで、翌春、卒論は書きあげた」。
山口旦訓は、宝くじコレクターとして知られる山口繁樹(やまぐち しげき)の子として、1940年、この世に生を受けます。早稲田大学第一文学部を卒業し、『東京タイムズ』に勤務。その後、ジャーナリスト畑を渡ります。その一方で、父譲りの宝くじ研究者という側面も。『東京タイムズ』の学芸部記者として、宝くじの記事も書きます。その後、フリーになっても、宝くじの本を著したり、現在でもいくつかの週刊誌に、記事を書いています。そこでの名は「山ちゃん」。宝くじの記事を書くと、父が喜んでいたことを今でも鮮明に覚えているとのこと。
今回はご存命の方なので、凹天晩年の貴重な記録として、山口旦訓が、凹天をインタビューした1973年1月5日付『デイリースポーツ』の記事を紹介します。凹天は、『デイリースポーツ』企画の「日本列島奇人・変人めぐり」のトップバッターとして登場。山口旦訓が用いたペンネームは井伊多朗でした。この当時、『デイリースポーツ』の知り合いの記者が、「日本列島奇人・変人めぐり」の企画をもって、該当する人物がいたら、紹介してほしいとのこと。すぐに山口旦訓は、かねてから知っていた凹天を思い出します。当時、『東京タイムズ』に勤めていたため、名前は出せません。そこで、ペンネームに井伊多朗、つまりイイダロウと。隣人に飯田という方がいたことがヒントになりました。ちなみに、この『デイリースポーツ』は、いつも大阪阪神タイガースを一面にもってくる例のスポーツ新聞ではなく、当時東京上野の池之端にあった『東京デイリースポーツ』。取材は1972年12月中旬。これが現段階で判明している限り、生前の凹天を取り上げた最後のメディア関係者の取材です。
野田市にある小高い丘の上に、住民から「安楽邸」と呼ばれる広大な邸宅がありました。これが野田醤油の5代目社長だった茂木房五郎の邸宅です。「樹木がしげる路地に沿い屋敷のヘイが百㍍にも及ぶ。角を曲がるとがっしりとした門。ここが奇人変人列伝のトップバッターとして登場する漫画家・下川凹天(ヘコテン)大先生の住み家だ」。書物などでは、凹天自身の離れ家だけを「安楽邸」と呼ぶことも多いのですが、実際には、野田醤油創業8族の内、茂木房五郎家の大邸宅そのものを「安楽(あらく)」と呼んでいたのです。
「ところで間違えてくれては困るのだが、凹天先生がこの屋敷内に住んでいることは確かである。しかし凹天先生が家主ではない。家主だったら六畳と四畳半の離れに住んでいるはずがない。ここの主人は野田しょうゆの前社長・茂木房五郎氏だ」。
ここで、野田の醤油の歴史をかいつまんで紹介します。野田に醤油業が発達したのには、まずもって立地条件が良かったことが、挙げられます。現在の千葉県野田市には、西側に利根川と東側に江戸川と大きな川があります。醤油を作るのには、大豆、小麦、食塩が必要です。大豆は現在の茨城県、小麦は、現在の群馬県や埼玉県、食塩は、江戸川の河口に近い現在の千葉県行徳市から。それを醤油にして、江戸川から江戸に運んでいました。前史は措くとして、1661年に、上花輪(かみはなわ)村(現・千葉県野田市上花輪)名主であった高梨兵左衛門(たかなし ひょうざえもん)が醤油醸造を開始し、翌年には、茂木佐平治(もぎ さへいじ)が味噌製造を開始。
その後、続々と醤油作りが始まりました、江戸の人口の増加と利根川水運の発達とともに野田の醤油醸造は拡大します。1871年には、高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けて「野田醤油仲間」を結成しました。1800年代中頃には、高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けます。
1873年ウィーン万国博覧会が開催されると、茂木佐平治家が亀甲万印の醤油を出品し、名誉賞を受賞します。以降、博覧会や品評会などへの出品と受賞歴が重なっていきます。1887年には、「野田醤油醸造組合」が結成。この背後には、澁澤榮一(しぶさわ えいいち)がいました。そうです、凹天と山口豊専を語る上で欠かせない下田憲一郎(しもだ けんいちろう)を支えた、かの大実業家です。
野田醤油と渋澤家は、その後も関係が続きます。1917年には、茂木一族と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立。「亀甲萬(キッコーマン)」のロゴは、茂木佐平治家が使用していたものに決まりました。このロゴは、香取神社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとも。
1922~28年には、「野田醤油事件」と呼ばれる大ストライキが起きます。最初は、小さな火種が大きくなっていきます。紆余曲折を経て、この時、このストライキを収めたのが、またもや澁澤榮一でした。
その大ストライキの間にも、1927年、東京市場で商標をキッコーマンに統一。そして、1940年、全国で商標をキッコーマンに。
その後、ここで作られていた「亀甲萬御用蔵醤油」は、1939年から宮内庁へ納め続けられている御用達品に。 御用蔵では、国産の丸大豆と小麦だけを使って、木桶で1年間じっくりと熟成させた天然醸造の醤油が造り続けられているものです。手作りに近い少量生産のこの醤油は、「御用蔵醤油」という名前で一部が限定で販売されてきた、いわば「醤油の大吟醸」。今ある「キッコーマン特選丸大豆しょうゆ」の原点とも言える醤油です。
その後も、キッコーマンは商標を KIKKOMAN、kikkomanと変えながら、世界に広がるグローバル企業に成長。その裏には、澁澤家の後ろ盾のあったことが、記録に残されています。
さて、1936年、後に第6代目社長となる若き日の茂木啓三郎二代目(もぎ けいざぶろう)が教養部長の頃に、高尾山の夏期研修を開催しました。この背後には、キッコーマンの5代目社長の茂木房五郎の意向があったからもしれません。なぜなら、キッコーマンの5代目社長の茂木房五郎が、凹天ファンでした。この夏期研修には凹天も加わっていたことが記録に残っています。あるいは、妹の友人として出会った2番目の妻なみをとの関係から、すでに知り合っていたかもしれません。その微妙な人間模様は、このブログの第2回で述べました。
話を晩年の凹天に戻します。凹天のアトリエ兼住居は、茂木房五郎の大邸宅の離れにある、6畳と4畳半でした。「早い話が凹天先生はこの居候である。が、そんじょそこいらの居候とは、ちとわけが違う。なにしろ先生の場合は、部屋代は無論タダ、そしておまけにお手伝いさんまで付いているのだから豪勢だ。部屋のすみにあるボタンを押すと『ハイ、先生、なにかご用でしょうか』と、お手伝いさんすぐに姿を見せる」。悠々自適な凹天の姿が浮かびます。
「下川凹天といえば、知る人ぞ知る漫画界の大御所だ。明治二十五年生まれだというから、すでに八十余歳。とはいえ、もうろくどころか、少し耳が遠いのと足腰が弱くなった程度で元気なものだ」。
戦前は、あらゆる漫画を中央紙上で発表して大活躍。時代の寵児であったが「終戦。世の中は混乱し体の調子を崩した凹天先生は、急に都会の生活がイヤになってしまい、野田市内へと引っ込んでしまった。それからは中央とのつながりをキッパリ切って、ひたすら仏教漫画にこりだした」。
1954年1月28日付『讀賣新聞』夕刊に、「仏画をひっさげて十年ぶりに登場 あす個展、奮起の下川凹天氏」のリードとともに、このあたりの事情をこう記しています。「”男やもめの凹天”にはじつは恋愛結婚した恋女房があった。そんなたま子夫人がある日突然家出した。厳さんの人気が最高潮に達したころから夫人の行動がおかしくなり、医者に見せたところ精神分裂病だという。病院に入れたり、精神医にみせたり手当をつくしたがさっぱり快方に向かわず、戦争がひろがって防空演習がはじまりかけたある日、突然姿を消したまゝ今もってゆくえ不明という。この夫人の家出が気になって凹天氏はあれほど人気のあった漫画の筆を一切折った。それからもんもんと心の遍歴をつゞけること十数年、ようやくたどりついたのが仏画の世界だというのである。終戦後は千葉県野田市清水公園のわびずまいにこもり貧苦とたたかいながら仏画をかきつゞけようやくこんどの個展を開くまでにこぎつけた」とあります。しかし実際には、このブログの第2回で述べたとおり、一番目の妻たま子が亡くなると、すぐに二番目の妻なみをと結婚しています。なにより、凹天は「漫画の筆を一切折った」どころか、「日本漫畫報公曾」に属して国策に協力。宮城県の疎開先から戻っても、1946年に『日曜漫画新聞』を創刊したり、1947年には、三越のポスターを描いているのですから。この時期の凹天に関しては、改めて深掘りする必要があると感じます。
「三十八年に奥さんが病没。子供のいない凹天先生はひとりぼっちになってしまった。そのときである。茂木氏から、『なにも心配しなくていいから、うちでのんびり暮らせ』といわれた。以来、今日まで”のんびり”が続いている」。
「凹天先生いわく。『わしは食客じゃ。しかも高等食客だな。ワッハハ』先生は、居候とはいわなかった。居候と食客とでは言葉のニュアンスが違う。芸術家である凹天先生は茂木氏を評して『文化人』を大切にしてくれるありがたい人だ』という。そして自らはその庇護のもとにある食客だと思う。だから凹天先生は威風堂々としているのだ」。
日課の記録も残されています。机の上に一片の紙切れを貼り、食べ物の目標は「朝=コーヒー、ポテト、ホウレン草、酵素十粒。昼=玄米、野菜食、運動一時間。夜=玄米、海草食」。もっとも、山口旦訓が、実行しているかと尋ねると、「目標だからな。なるべく実行しとるよ」とのこと。また、毎日欠かさないものは、「タバコとコーヒー。それに新聞とテレビのニュース」。山口旦訓が凹天と話し込むと「アメリカの大統領選からベトナム戦争まで、現代サラリーマン気質からヒッピーまでと、キリがない」。
漫画界のことも忘れずにいます。「安楽亭食客はえらくごきげんである。去年は曲がり角にきた日本の漫画界の方向を探るため、門下生と新しい運動を起こすという。『なぜ、漫画はいつまでたっても娯楽の域から出られないのか。漫画を芸術の一つにするにはどうしたらいいのかを考え、実践に移すんだよ』」。ここからは、山口豊専(やまぐち ほうせん)とやっていた「慧星会」や「野田漫画クラブ」を思い起こさせます。
「安楽亭食客はいまや野田市の名士である。この名士をたずねて、ときおり東京から若い漫画家志望者が訪れるそうだ。『どういう風の吹き回しかねぇ』ツエをついて散歩する凹天先生の足元はおぼつかないが、意気は盛ん」。
身体は弱って調子を整えようとするものの、気分だけは、まるで「慧星会」での荒行の総指揮者だった頃を思い出させるような姿が目に浮かびます。再び、裏座から宮国です。先にも書きましたが、凹天研究を進めていくうちに、東京と宮古島の近代史をひもといてみると、面白いことに気づくことが多くなりました。まるで無関係だと思われた事柄がひとつひとつつながっていくのです。
最後に、凹天自ら記した言葉を引用しておきます。「一人物で病弱なので野田キッコーマン前社長の邸内に引取られ高等食客をやっているので喰べるには困らくなった。過日は教え子の石川進介君、山口豊専君が得意の似顔と女の帯絵で同邸を訪問、家族親類を喜ばせたので、この高等食客も鼻高々であった。次はこの春の富士山療養センターに私が滞在中、両君が見舞いに来て、看者達に奉仕したので私は特別扱い、先方で出資して私にサービス五湖めぐりやらカニ料理など御馳走するありさま、次は群馬県の女流書家から、この人は、八十才であるが読売時代の『男やもめの巌さん』のファンで、四五日泊りで招待を受けている。また両君は遊びがてら奉仕してくれることになっている」。
「若い時分、日本画の全盛で、漫画を何度やめようかと思ったかしれなかった。亡妻が『私はマンガ家の処へ嫁に来たのです。日本画になるなら別れます。』と、言われたことさえあった。これは先妻のことだが、二度目の妻は漫画家の家へ嫁入りすることを秘密にしてきたのだ。それはみんなにけいべつされるからであった。
それがどうです。名誉会員で世間的の地位ができ、なんにもならないと思った教え子からは肉親の親子以上の世話になり、一生貧乏とあきらめていたのに、縁もゆかりもない人から生活を保証され、漫画の暴騰で自分がビックリする程の市価が自分の作品に付いてしまった。
長生きしたというお蔭もあるが、根本的には自分な好きな仕事を摑んだら金儲けや環境に左右されないでやり通すことだと思う。そうすると、教え子も、金持ちも、幸運も、先方からやってくる。私はこの年になってやっとそれが判ってきたのです。私はその喜びでまごまごしています」。
山口旦訓は、凹天晩年に関するエビデンスを取りに、安楽邸に自分の足を運んで調べました。このジャーナリスティックな姿勢は、見事だと感じます。
一番座からは、以上です。