先週は偶発的に発見したばかりの碑を勢いにまかせて速報級で紹介してみましたが、今回もやっぱり偶発的に発見した碑を紹介してみたいと思います。ある意味、とれたて産地直送的な(個人的に)鮮度のとても高い石碑です。
しかも、今回はタイトルからして気になる方も多いのではないかと思えるほど、なんともキャッチーすぎる石碑です。
発見時の雰囲気はこんな感じでした。
宮国線から城辺方面にと向かうのに、なんの気なしに入った脇道(移動に時間余裕のある時は、なにか興味をそそるものはないかと、普段あまり通らない道を通るようにしています。宮古は見通しがとてもい良いので、迷うことなんてまずありえないし、たとえ現在地が判らなくなっても少し走ればすぐにリカバリーできるくらい判り易いので)。畑の中に唐突に鳥居が見えて来て、接近するに従って「気になり度数」は爆上げ。思わず鳥居の前で車を停めて、いざ、突撃と相成りました!。
コンクリート製の鳥居と、ブロック塀で囲まれた四角い「神社」の敷地内には、大きなガジュマルと小さな祠がありました。大地は雑草対策なのか、ほぼコンクリートで覆われているので、市街地の御獄のような感覚です(でも、周囲はもちろん畑)。
敷地の左奥の隅(鳥居から見て)にある祠は、敷地に対して斜(はす)に置かれ、スチールの扉が硬く閉じられています。いわゆる御獄的要素の定番である、畏部(イビ)とか香炉などがまったく見当たりません(尚、祠のある位置だけ、一段高く作られている)。
道路に面して建つ鳥居を四角い敷地の中心線とした軸にたとえると、祠の線対称となる位置には、2本の屹立した金属製のポールと、謎めいたサークル状のコンクリート痕があります(鳥居から見て右奥)。
2本ポールは祠に対して備えてあるようにも見えることから、祭祀の時に日除け雨除けのテントでも張るための支柱でしょうか。正体不明の構造物です。また、サークル痕は形状からどことなく井戸を連想させますが、どうやら、なんらかの樹木が植えられていたけれど、枯れてしまいコンクリートで埋めたような感じに見え、こちらも謎の構造物です。
さてさて、肝心の石碑ですが、祠と相対するような位置関係で、ガジュマルの根元に建立されています。
コンクリートの台座の上に、小ぶりの墓石を思われるような雰囲気の黒御影と思われる石材で石碑が作られています。碑文には「幸(しあわせ)神社」と読み方もカッコで書き添えられ、ハイビスカス(?)のような花のイラストも見えます。
なんとも不思議で、現代的な雰囲気です。御獄の神社化は今に始まったことではありませんが、どことなくこれまで見て来たモノとはずいぶんと雰囲気が異なっている気がします。
台座に、この「幸神社」のいわれが記されていました。
幸(しあわせ)神社
平成十五年十月二十三日建立
記
幸神社は、上地マツが村の神様、心の原点である親や祖先に感謝し、村人皆が幸せになることを祈念して、イシドマイ旧ウタキに建立した。
上地マツは大正元年、下地村字嘉手苅イシドマイの川満家に生をうけ、隣家の上地家の長男に嫁ぎ、貧しいながらねも両家を守って来ました。五人の子どもと十二人の孫、大勢のひ孫に恵まれ、幸せな晩年を過ごしています。
マツが十歳の頃、母親が屋敷の東側にあったガジュマルの気を示し、神様がこの木にいるから大事にしなさいと教えました。マツはその教えを守って日々を懸命に過ごしてきました。
生まれ変わった幸神社は、皆が親孝行に務め、村の伝統である豊年祭を継承していくこと、そして村人が幸せになることを願って、上地マツが思いを込めて命名しました。
色々と気になるワードがで出来ました。
まず、この神社が個人の想いから、御獄あった場所に建てられたということも。
なかなか衝撃的です。
いつもの
平良市史御嶽編(1994年)を開いてみると、イストマリ御獄(漢字では石泊。イストゥマイとか、イシドマイと表記される)は、現在の幸神社の位置に存在し、老ガシュマルや老デイゴなどの木々が茂る御獄林に囲まていたようです。敷地内には4メートルほど円形の広場があり、祭壇には4つのイビと香炉が3個置かれているとあります(イビと香炉の数が異なるのは、祀られている神が、天神、世の神、大和神、水龍宮で、水の神は火を忌むため香を焚かないので香炉がないため)。
この御獄はヤーバリ御獄(屋原集落の南西)を遥拝しているもので、イシトマリ集落の人たちが拝んでいるが、当時ですでに4世帯しかおらず、祭祀を仕切るサスも那覇に住んでいて、年に一度のシツ(節祭)を執り行うために宮古を訪れるという、限界集落にして限界御獄の様相を呈していました。
【左】コンクリートの謎のサークル痕 【右】狛犬でもシーサーでもなく、龍柱です
想像に難くありませんが、幸神社を命名した大正元(1912)年生まれの上地マツさんは、この神社の碑の建立年平成15(2003)年の時点で91歳という計算になりますから、なかなかの高齢にありました。
また、時期的に見ても集落民の減少、祭祀の継続困難に加え、御嶽編掲載時のイストマリ御獄から耕地整理などもあったと見られ、そうしたタイミングから幸神社へと生まれ変わったのではないかと推察します。
もうひとつ物語の痕跡が御嶽編に記されていました。イストマリ御獄の項目の被調査者が、川満姓の方の名前があり、神社のすぐ西側に2軒並んいる家屋のひとつでした。
碑文に「母親が屋敷の東側にあるガジュマルを大事にするように」伝えたことも符号することから、おそらくそこがマツの実家の川満家であり、隣家は嫁ぎ先の上地家だと考えられます。なにかちょっと熱いものがこみ上げてきました。
最後に地名の話。
マツの実家である川満家は、「下地村字嘉手苅イシドマイ」と記されていますが、現在、この場所の住居表記は「宮古島市上野大字上野字側嶺(ソバンミ)」にあたり、字イストマイ(石泊)は県道を挟んだ向かい側にあります。また、この付近地域の呼称(地域名称)はソバンミと呼ばれており、近年、取り壊されてしまいましたが、もっと西側の福原に側嶺公民館跡があります(元公民館を発見した時点で、すでに農機具小屋に払下げられていた。その後、字公民館は設置されていない)。
また、大字の部分が「下地村嘉手苅」とあるのは、昭和23(1984)年に下地村から上野村が分村した時代まで溯ります。分村した上野村は従来の新里・宮国・野原の3大字と、新設された大字「上野」で構成されますが、この新しい「上野」は、ソバンミを含む嘉手苅の東部(ヤーバリ、ガーラバリ)にあたる区域でました。
下地から上野が分村し、さらに嘉手苅は東西に分離して新しい大字が誕生したことは、明治の町村制施行後、宮古では初めてのことでした(村名としても実は同様)。