今回紹介する石碑は、先日、偶然発見した他愛のないコンクリート柱なのですが、個人的にはこれを是々非々で史跡に指定して欲しいぼど、素晴らしいものだと考えています。というのも、このコン柱は近代交通史を物語る小さな小さな過去の遺産だからです(個人的に島の交通史を自由研究しているので、少し興奮しています)。
場所は下地地区、洲鎌の南方。棚根(たなにー)集落の一角です。
棚根集落の戸数は地図を眺めてみると、わずかに20~30軒ほど。そこそこ空き家になっているところも目立つし、建具などはあっても生活感の薄い家も多いので、実数はもっとすくないと思われます。
現在、この地域は宮古協栄バスが嘉手苅線として、日に6本(旧校日ダイヤあり)ほど平良とを結んでいますが、棚根を経由する便は朝の平良行が2本、午後に嘉手苅経由の平良便が2本のみとなっています。
宮古協栄バスが運行するバスのルートは、島内のどの地域も虫取り網のように、平良(柄の一番下)から該当地域まで幹線(嘉手苅線の場合は県道243+国道390の下地線)を進み、網のフチにある該当地域(嘉手苅線の場合は下地庁舎前≒旧下地役場前~洲鎌~入江~棚根~下地庁舎前)を、右回りか左回りで周回して、柄に戻るコースになっています(実際の嘉手苅線は、さらに枝線として皆愛~来間を往復するという複雑なルート構成)。
棚根バス停は新しい道路の開通などで、集落の北寄り、入江湾西岸に近い新設道路上に設置されています(バス停順では、台湾屋南方180メートル付近の“棚根入口”~棚根~橋を渡った先の交差点手前の“入江”)が、この「バスのりば」はもうすこし南の集落のただ中にあり、今どきの大型化したバスでは通るのが厳しいくらいの四辻(交差点というよりは、この言葉をチョイスしたい雰囲気)。
【1962年 棚根から入江への街道ということがよく判ります】
古い空中写真(1977年)を見てみると、「バスのりば」のある四辻は、当時、入江に向かう唯一の道路だったことが判ります(ちょうど入江橋周辺も改修している最中です)。入江は橋(旧橋)の架橋された年が調べ切れないので、はっきりとませんが、1962年のUSA撮影の空中写真にも旧橋まで続く、棚根集落を貫く道が一番大きな道として見て取れます。
下地町誌(1998年)をめくってみると、どうやらこの道は、下地町道15号棚根線(起点:洲鎌579-6/県道390号より分岐する地点 終点:嘉手苅284/県道197号と接する入江集落の交差点)として指定されていました。
ただし、現在は棚根集落南部に沖縄県道235号保良上地線が開通しているため、入江橋の部分は県道に昇格しており、終点は棚根の県道235号合流部となっているものと思われます(県道235号線は、1995年から西半分の2期工事として友利-上地が事業着手されるも、宮国集落付近にある宮国元島上方古墓群の発掘調査によって、同区間の工事のみ大きく遅延したことから、全線の開通は17年目の2012年を待つこととなりました)。
当時の県道15号棚根線は、大きく棚根集落に立ち寄るように曲がっていましたが、周辺の耕地整理などとともに、入江湾寄りに新たなルートが開かれ、バスのルートもそちらに変更されたタイミングで、バス停の移動もなされたと考えられますが、この開通と移転についての時期は判っていません。
メインストリートから村落道へと降格された旧道ですが、往来もほとんどない静かな四辻は、開発とは無縁のまま取り残された結果、この「バスのりば」の碑が現在までこの地に奇跡的に残されたのだと思われます。
碑をよく眺めてみると、少し傾いてはいますが、道路に面した側に掘り込まれた「バスのりば」以外に文字らしきものは読み取れませんでしたが、どうやら表面が黄色くペンキで塗られていたようで、かすかに色が残っていました。
【1977年 入江橋の架け替えが始まっています】
ところで、この古く時代に取り残された「バスのりば」には、どんなバスがやって来てたのでしょうか。
駆け足で下地のバスの歴史を調べて来たので、簡単にまとめてみました。
下地における旅客事業の始まりは、 1916(大正5)年に来間の砂川玄徳氏により、客馬車の運送業が開始されたのが最初とされています。しかしながら、2年ほどで運行は中断してしまいます(大正6年に開始し、4年続いたとの記述もあるが、砂川氏は1922年から下地-平良間の伝馬船経営を始めている)。
その後、1923(大正12)年になって、上地の古波蔵清氏によって再び客馬車の運行がはじめられ、これに続くようにして3~4人が客馬車の営業を開始します。こうして平良との往復がようやく便利になります(これ以前にも、池田矼の話や国道390号線にまつわる話がありますが、今回は割愛しておきます)。
1937(昭和12)年に丸宮バスが設立され、平良-与那覇間で運行を開始しますが、戦争のあおりをうけてやむなく廃業を余儀なくされます。また、同年末頃からは台南製糖(後の沖縄製糖)の砂糖運搬トラックを使った客送も運行されていたようですが、こちらもガソリン不足から木炭エンジンに改装させられるなど、受難な時期が続きます。
戦後は1946年(昭和21)年に、当時の砂川佳久村長が村営自動車運送業を興し、日本軍から払下げられた貨物車を改造したバスが運行がされます。1948(昭和23)年、與那覇金一村長は自動車交通の重要性から、増車を計画。宮古民政府に保管中されていたトヨタ車を月額200円で借用して、2台体制で平良-与那覇間にバスを運行させます。
やがて旅客数も増え、貨物車の改造バスでは輸送力不足となって来たため、1950(昭和25)年に大型バスを1台、1953(昭和28)年にも1台増備して、正規のバス2台をもって地域輸送の需要を担いました。
※尚、上野村の分村は昭和23年。下地町町制施行は昭和24年。
【1995年 入江橋が完成。県道の工事も進み、棚根漁港、ゴルフ場が完成しています】
ここまでバスは与那覇方面のバスばかりが登場していましたが、1959(昭和34)年に平良-入江間を運行していた上野バス(宮国の砂川純吉氏が経営)の事業廃止(本文ママ)に伴い、同氏のバスを譲り受け、路線の延長も行って入江線(平良-入江)を町営バスとして運行させます(上野側で運行されていたバスついての運行開始年は未明)。
これにより、来間、高千穂地区を除く下地町区管内の各集落に、バス路線が運行されるようになりました。
ところがこの上野バス。後に宮古協栄バスに転換されることになるのですが、1966年や1979年の資料では平良-宮国と平良-新里の2路線を運行しており、事業廃止はまだまだ先のことなので、下地町営バスへは路線廃止からの路線譲渡をされたのだと考えられます。しかし、当時はまだ運行していると思われるはずの入江線について、1958年発行の上野村誌には一切の記述がないのです(上野バスはバス5台を使用して、宮国線・新里線ともに、おおよそ1時間ヘッドの運行頻度。平良側の停留所は、現在の下里東通、平一小に近くあった上野農協の一角で、今もその名残として、“元うえのバス停”を名乗っています)。謎は深まるばかりです。
尚、下地の高千穂地区については、集落の地理的条件から、上野バスによって補われていたことを付け加えておきます。
話を下地町営バスに戻します。
1960年代に入ると自家用車やバイクの普及により、バスの利用率が大きく低下。民間へ譲渡することとなり、1967(昭和42)年に八千代バスへの売却が決まりますが、諸認可の遅れなどがさまざまな問題が紛糾し、裁判にまで発展したことから八千代バスへの売却は白紙とされました。その後、1979(昭和54)年に、宮古協栄バスへ事業譲渡がなされ、村営・町営バスとして25か年続いて来た公営運送事業は終了しました。
もしも、当初の計画通り下地町営バスが八千代バスに移管されていたら、池間島から来間島への島内横断バス路線なんて、夢ような路線が運行されていたかもしれないと思うと、鼻血が出そうです。
以上、下地町誌を元に独自に構成した下地の旅客運送の歴史でした。
結果として、正確な当時の運行ルートは未解明。ルートの移転・バス停の位置変更の時期も不明。この「バスのりば」はどこのバス会社が作ったものか未明。っと、判らないことだらけです。それだけ交通史については資料もなく、研究者もいないので、知りたくても判らないことだらけです。
けど、この「バスのりば」はすくなくとも、この地にバスがやって来ていたことを物語る証人であることだけは、間違いありません。ぜひ、小さな証人であるこの「バスのりば」の碑を大切にしてほしいものです。
【1923年、陸軍測量部による地図(手持ちの資料で最も古い地図史料)。まだ入江に橋はかかっておらず、棚根もタナニイ。入江はモリカドと名付けられています。尚、このモリカドは戦後直後くらいまでは使わていた名前のようなのですが、はっきりしたことが判りません。情報がありましたらぜひご教示下さい】
【お願い】
ご家庭で不要となった古い島の本、地図、パンフレット、観光ガイド、要覧などをお譲り下さい。これ以外にも史料となりうるかもしれない、ありとあらゆる島に関する紙モノ(人によっては価値のないゴミが、実はお宝だったりするともある)をください(嘆願)。